2007年のデビュー以来第一線を走り続けているバービーさん。ここ数年は、ワイドショーのコメンテーターからエッセイの執筆、故郷の町おこしに下着のプロデュースと、活動の場を広げている。「自分がわくわくすることを仕事にしているから」と、“わくわくコーディネーター”という肩書きを名乗るまでの軌跡をひも解く。
仕事、恋愛、人間関係、何ひとつ満足できなかった20代
「イエス、フォーリンラブ!」が決め台詞のシチュエーションコメディで、デビューするや否や人気に火がついたお笑いコンビ、フォーリンラブ。
そのボケ担当で、“肉食系女芸人”としても注目されたバービーさんだが、「20代は芸人としての自分に自信がなく、迷走していました」と明かす。
「ありがたいことに、デビュー直後からお仕事はたくさんいただいていたんですけれど、そんな現状と自分との間にギャップを感じて、鬱々としていました。
もともと放送作家に興味があって今の事務所に入り、勧められるままに芸人に転向したので(お笑いに関して)なんの土台もなかったですしね。
ただ、度胸だけはあったので、カメラの前ではけっこう無茶苦茶なことをして、それがたまたま受けていただけというか……。『オレが一番おもろい!』という気概のある芸人仲間に囲まれて、自分は同じ土俵に立つレベルじゃないと、ずっとコンプレックスを抱いていたんです。
思い返せば、仕事だけでなくプライベートでも同じでした。恋愛、人間関係、将来のこと、何ひとつ満足できていなくて、モヤモヤしっぱなし。朝まで飲んだくれて、タバコもガンガン吸って、いつも睡眠不足で、けっこう荒れた生活をしていましたね(苦笑)」
ダイエット企画への挑戦で芸人としての覚悟が決まった
転機が訪れたのは、デビューから数年が経ち、ピンの仕事が増えた頃。
「コンビの時は相方がいるという余裕というか逃げ道があった」が、ひとりで活動するとなると、良いことも悪いこともすべて自分で背負うことになる。強い意志をもって入った世界ではなかったものの、いつしか芸人という仕事に魅了されていたのだろう。
バービーさんは、プレッシャーと闘いつつも、ひとつの決断をする。それは、とある番組のダイエット企画への参加だ。
それまでは、ぽっちゃり体型をイジってもらうことが多かったため、 “最強の武器”がなくなることへの不安はあった。一方で、ビジュアルに頼らず、中身で勝負しなければという想いをずっと抱えていたのも事実。
3ヵ月間に及ぶ、かなり本格的なダイエットに挑戦することは、芸人として覚悟を決めることでもあった。
「痩せてしまったら芸人として終わってしまうかも。そう思ったんですが、一番痩せていた2012年の11月に出演した『リンカーン』(TBS系にて2009年~2013年放映のバラエティ番組)で、グラビアアイドルをなぎ倒し、近くにいた芸人さんたちとキスしまくったら、出演していた芸人さんたちにも大ウケで。
あれがターニングポイントとなり、ぶっ飛んだことをする女芸人、バービーという方向性が固まった気がします」
町おこしや下着プロデュース…“わくわくするもの”に片っ端から挑戦
もっとも、それで視界がいっきに開けたわけではない。
芸人としての覚悟が決まり、「爪跡を残すぞ」と意気込んで仕事に全力投球する半面、バービーというキャラと素の自分との乖離(かいり)に、心が悲鳴を上げ始めた。
「芸能界に入ってからずっと、自分という商品を売るためにどうしたらいいかを考えてきました。でも30歳に差しかかった頃から、バービーとしてだけでなく、(本名の)笹森花菜個人を豊かにしていかないと壊れてしまうと思うようになったんです」
そこで、笹森花菜として興味のあることに片っ端からチャレンジ。
通信教育などを利用してさまざまな学びにトライし、2017年にはガーデンデザイナーの資格を取得。故郷、北海道栗山町の古民家を拠点に町おこしに携わるようになり、2020年からはピーチ・ジョンで下着のプロデュースも手がけるなど、好奇心が赴くままに活動の幅を広げた。
とはいえ、すべてが最初からうまくいったわけではない。
「講座を申し込んだのに、あまりの難しさにすぐに挫折したものもありますし、町おこしや下着プロデュースのために人脈をつくろうと、夜な夜な港区内で飲みまわったものの単なる飲み会で終わったことも数知れず、です(苦笑)。
でも、あきらめなければなんとかなるものですね。誰かが手を差し伸べてくれたり、人をつないでくれたり。ご縁に恵まれているなと、感謝しています」
迷い、もがきながら、30代を迎え、少しずつ自分を満足させる生き方をたぐり寄せてきたバービーさん。次回はその秘訣と、その後の変化について、語ってもらおう。