2023年1月、多発性骨髄腫という血液のがんに罹患していることを知った岸博幸氏。余命10年を告げられた岸氏が、闘病の記録や今後の生き方、日本の未来への提案をつづった著書『余命10年。多発性骨髄腫になって、やめたこと・始めたこと。』を上梓する。たまたま入省した通産省で貴重な経験を積み、順調にステップアップしていった岸博幸氏。入省5年目にはコロンビア大学経営大学院に留学し、その後、KEDOへの出向で再びニューヨークへ。そこで得たかけがえのない出会いとは?
コロンビア大学経営大学院留学でニューヨークへ
入省5年目の1990年、岸氏に大きな転機が訪れる。MBA取得のためにアメリカのコロンビア大学経営大学院に留学。この2年間で、岸氏は初めて“世界”を肌で感じることになる。
「一度は海外で暮らしてみたいし、大学院で勉強もしてみたい。ずっとそう思っていたので、入省後も多忙な合間を縫い、英語の勉強だけは頑張っていました。その甲斐あって、省内の留学制度試験に合格。憧れていたニューヨークでの学生生活がスタートしたというわけです」
省内の留学制度のため、授業料は当然通産省が負担する。その上、留学は長期出張扱いなので、出張手当も受け取れた。しかも、日本でもらっていたのとほぼ同額の基本給も支給されるという。
「だから、普通は留学するとリッチな暮らしが送れるのですが、僕は、日本での給料はすべて母に渡していたので、相変わらず貧乏で(笑)。ただ、これもラッキーなことに、ニューヨークにあったJETRO(日本貿易振興機構)に出向していた通産省の先輩たちが、自宅に招いてくれたり、外でご飯をごちそうしてくれたりと、ずいぶんかわいがってくれました」
留学を終えて日本に帰国した際、当時は先端を行っていた電子政策課(現・情報政策課)というIT関連を扱うセクションに課長補佐というポジションで配属されたのも、「ニューヨークでお世話になった先輩たちの推薦があったからだと思います」と、岸氏。
「これはどんな仕事でも言えることですが、道を切り拓くのに必要なのは、本人の実力だけでなく、人との縁が重要なのだと思います。むしろ、後者の方が大きいかもしれません」
KEDOへの出向で、人生の恩人・坂本龍一と出会う
この留学で、役所以外の世界を体験し、日本とは異なる価値観に触れることのおもしろさに開眼した岸氏は、その後も海外に出るチャンスを伺っていた。そして、1995年、件の先輩たちや周囲の後押しもあって、再びニューヨークの地を踏むことになる。1995年から3年間、ニューヨークにあった朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)という国際機関に出向して、だ。
「人種のルツボと言われるニューヨークは、今も昔も変わらずアメリカ、いや、世界最先端の街であり、さまざまな刺激に満ちています。そこで働くことは、留学以上に得るものが大きかったですね」
2023年に没するまで公私ともに親しく交流し、「最大の恩人のひとり」と敬服してきた坂本龍一氏と出会ったのも、この頃だ。
「現地で知り合った友人が、『絶対に気が合うから』と紹介してくれたのが坂本さんで。本当にすぐ意気投合して、行きつけのイタリアンに連れて行ってもらったり、坂本さんの自宅兼スタジオに遊びに行かせてもらったり。坂本さんがいろんな活動を精力的にしていた頃だったから、ものすごい刺激を受けたし、いろいろなことを学ばせていただきました」
もうひとり、岸氏のその後の人生に大きな影響を与えた人物がいる。KEDOの同僚で、恋人でもあったアメリカ人女性だ。次回は、その女性から学んだ人生訓について教えてもらおう。
※続く