2023年1月、多発性骨髄腫という血液のがんに罹患していることを知った岸博幸氏。余命10年と告げられた岸氏が、闘病の記録や今後の生き方、日本の未来への提案をつづった著書『余命10年。多発性骨髄腫になって、やめたこと・始めたこと。』を上梓した。それを機に、今後の生き方を見直し、「日本のために、もう一度プレイヤーとして汗をかく」ことを決意。今回は、その原点のひとつである官僚時代について語ってもらった。 #1/#2
通産省時代のこと
岸氏が通産省で最初に配属されたのは、産業政策の立案をはじめ、経済や産業に関する調査・統計を所轄する産業政策局だった。
「僕が入省した1986年当時の霞が関は超ブラックな職場で、毎日夜中の2時、3時まで残業が当たり前。各省庁の前にずらりとタクシーが並んでいて、僕も新人ながら、毎日タクシーで帰宅していました。で、家に着いたらお風呂に入って、2、3時間仮眠をとり、早朝に起床し、電車に揺られてまた霞が関へ。毎日その繰り返しでしたから、我ながらよくぶっ倒れなかったと思います。
これも、大学時代にロッククライミングのために身体を鍛えていたおかげでしょう。もしかしたら、通産省の面接官が僕を気に入ってくれたのは、この体力を買ってくれてのことだったのかもしれません(笑)。ちなみにロッククライミングは、体力だけでなく、社交性も鍛えてくれました」
大学時代、岸氏が行っていたのはひとりで登山するソロクライミングだった。
「おかげで、山ではいろんな人に声をかけてもらえました。僕と同じ学生から人生の大先輩まで、幅広い世代の人たちと交流させてもらったことで、誰とでも臆せずしゃべれるようになったと思います。小中高とおとなしく、目立たなかった僕が、今のように人前で話す仕事ができているのは、この時の経験が大きいですね」
入省2年目で大臣にレクチャー
超多忙な一方、さまざまな経験を積むことができた。入所したての頃は雑用ばかりだったものの、1年目の終わり頃からは、国会答弁用の資料作成を任されるまでになった。さらに2年目になると、それを国会が始まる前に大臣にレクチャーする役割まで仰せつかったという。
「僕が抜きん出て優秀だったわけではありません。IT化のアの字もない時代ですからね、手を動かし、頭をひねらなければ進まない仕事が山ほどあるのに、それをやる人間が圧倒的に少ない。結果、入所したての新人にも、それなりの任務を与えなければ、回っていかない職場だったからです。
今は、課長補佐クラスが資料を作成し、レクチャーをするそうだから、つくづくおおらかで、いい時代だったと思います。上層部が意図したわけではないでしょうが、結果的に若手に経験を積ませ、成長する機会を与えてくれたのですから。
“たまたま”が重なって、なんとなく入った職場でしたが、おかげで、おおいにやりがいを感じ、毎日が充実していましたね」
省庁は2、3年ごとに異動があるのが一般的だ。岸氏も入省3年目には立地公害局(現・環境立地局)に異動になったが、ここでもさまざまな経験を積み、刺激を得ることができた。
「入省から4年で、行政や政治の仕組みをだいぶ理解できたし、良い経験をさせてもらったと感謝しています。就職する際に銀行ではなく通産省を選んだのは、結果的には大正解でした。やっぱり僕は、つくづく運のいい人間なのでしょう」
※続く