岩政大樹は2年前、初めて、プロチームのコーチに就任した。チームは自身が長くプレーした鹿島アントラーズだ。コロナ禍で、新任の外国人監督は入国できず、シーズン前のキャンプを指導し、開幕以降も監督代行として指揮を執った。その後、監督に昇格。最初のシーズンは4位となり、昨シーズンは5位でフィニッシュ。初めてのプロ選手の指導で、彼が感じたものはなんだったのか。連載最終回。【#1】【#2】
優しさが、最終的にクラブや選手のためにならなかった
――鹿島アントラーズでの監督業は、コーチから昇格という形でのスタートでしたが、難しさはありましたか? そして、前レネヴァイラー監督に対する選手の不満もあったなかでの岩政監督就任だったと記憶しています。
「もちろん、選手との距離感だとか、今考えれば難しさがあったと思います。選手の監督に対する気持ちも理解していたから、前監督と違うことをやらなくてはいけないということも考えましたし、レネ体制の継続ということも考えていました。『岩政がやりたいサッカーを』とも言ってもらったけれど、今はそういうタイミングではないだろうと当時は判断しました」
――途中で引き受けたわけだから、選手編成もご自身の希望がすべて叶っているわけでもない状態だったわけですよね。
「今いる選手でできることをして、結果を残して、そこから2、3年経てば、選手が入れ替わり、自分のサッカーができるだろうと思っていたので。自分としてもそのタイミングではなかった。プロの監督としては、合わない選手はチームから出していくのが良かったのかもしれませんが、僕はそれをできなかった。僕が必要以上に鹿島を知っているし、鹿島の選手たちを知っていたし、愛情があるからなのかもしれません」
――ご自身の鹿島での仕事を今、どんなふうに振り返りますか?
「僕は選手が躍動してくれれば良い。それは最初から一貫して変わっていません。社会人や学生だと、選手がまだ見つけていないような、それぞれの特徴の出し方を提示することで、彼らもどんどん楽しくなって、成長していくんです。
でも、プロの場合は、躍動させる方法は異なるんですよね。どんどん、サポートしていくだけだと、ある意味、弱さに繋がるというか、逃げたくなったときに、自分に矢印を向けなくなることもあるんだと感じることがありました。監督が明確に提示することをやらなければ、試合に使われないという立場でないと、選手が逃げてしまうということを感じたんです。
僕の選手のためにというスタンスが、最終的に選手のためにならないみたいなことを、反省点として持つようになりました。だからこそ、僕のスタイルのもと、どういうプレーが必要かをもっと明確にすべきだと今は思っています」
――厳格さも必要ですか?
「そのバランスをどうすべきかを、今ずっと考えています。試行錯誤の段階ですね」
――ハノイでの指導方針と鹿島時代とは違いがありますか?
「すでにお話したように、ハノイではまず、動きのパターンや揃えるべきポイントを提示しました。僕自身、プレーの判断をパターン化しないというのが、哲学としてあるんですが、鹿島時代は、動きのパターンも、あまり僕自身が提示すべきではないと思っていました。自分たちで見つけたもので、どんどんプレーし、結果が出れば、選手はポジティブになれる。最高じゃんとなるけれど……。
結果が出なくなると、迷い始めて、選手にとっては、戻るべき場所がわからなくなる。そういう環境を作ったのは僕なので、僕の責任です。だから、僕がもっと明確に提示しなくちゃいけないと考えました。でも、それはあくまで動きのパターンであって、判断のパターンではなく。」
――そこでも、チームの現状、選手に合わせたものになっていくわけですね。鹿島の監督時代の岩政さんは、選手に寄り添うように、教育者的な目線で、監督の仕事をされていた印象がありました。その優しさが、監督としての弱さに繋がったと思いますか?
「それによって、成り立ったものもあったと思っています。自分のなかでうまくできたという点もありました。ただ勝ちきれなかった、勝負弱かったという事実も感じています。なぜそうなったのかと考えたときに、いろいろな理由は思いつきます。
自分に矢印を向けたとき、僕はクラブや選手に対して、優しさを持って接したことが、最終的にクラブのためにも選手のためにもならなかったんじゃないか…。ものすごく虚しいことではあるけれど、それで勝てなかったのは、自分の責任だよなっていうことは、大きな反省点のひとつにはなりましたね」
今まで以上に目の前の選手とクラブに向き合っている
――ハノイでは、ご自身のスタイルを明確に提示しようと考えていると。
「そうですね。でも、これは僕が押し付けているのではなくて、それができる選手が揃っているなという感触があるから。そのうえで、自分のサッカーをいかに落とし込むかということになります。自分のなかで整理をつけて、チームを作っていくというのは、鹿島ではできなかったことだと思います」
――ハノイでは動きのパターンを提示されたというお話ですが、判断のパターンはどうなのでしょうか?
「本来自分のなかで整理がついているやり方で、ある程度チームを作り、そのなかで選手たちに判断してもらう。動きのパターンだけを伝えれば、そこに判断もついてくるだろうという感覚でサッカーを作っています。動きのパターンに名前をつけ、それを選手たちがプレーすることによって、判断は最終的に2,3にまとまってくると思っています」
――鹿島のコーチに就任されたときと比べると、今はとても冷静な印象があります。同時に非常に楽しそうにも感じます。
「僕が、指導者として鹿島に戻って、コーチ、監督をやったときは、40歳になったタイミングでした。人生の折り返し時期に、恩返しのチャンスが巡ってきました。恩返しをしたいという想いをすごく感じていました。
今思えば、その想いが強すぎたが故に、指導者というよりも、選手たちの先輩としてとか、クラブの昔の選手としてという感情がありすぎたんだと思います。フロントの方もみんな知っている人だから、その人たちへの恩返しとか、サポーターのみなさんへの恩返しとか、それを自分の生き方にしようというのが強すぎた気がします」
――そして、プロの監督としてのふたつめのクラブが、海外になりましたね。
「東南アジアのクラブで指揮を執るのは、日本での仕事が無くなってからとなんとなく思っていました。でも、実際に就任すると、日本も東南アジアも変わらない。僕を必要としてくれる場所があれば、そこで仕事をするだけ。ベトナムには何の縁もなかったし、関係のない場所ですが、監督としては何ら変わらないし、むしろやりやすいかもしれない」
――周囲の声に煩わされることもない(笑)。
「ですね。だからこそ、今まで以上に目の前の選手と目の前のクラブと向き合いながら、指導者として、働けている感覚は非常に強いかもしれないですね」
――2月18日にリーグ戦が再開しました。
「今年は旧正月が2月10日で、ベトナムでは2月8日から14日まで休日なんですよ。試合への準備ができないじゃないか!って、今、調整中です。シーズンは6月で終わるのですが、結果を残すことの意味は十分に理解しながら、内容にもこだわっていきたい。守ってカウンターという形に逃げたくはないです」