ハスキーな歌声で“演歌の女王”と呼ばれた八代亜紀さんが2023年12月30日に亡くなった。デビュー前から親交があり、ともに苦節時代を経てスター歌手になった間柄である歌手・五木ひろしに八代さんとの思い出を聞いた。第1回。
突然の訃報に声も出なかった
2023年12月30日、“演歌の女王”と言われた八代亜紀さんが永眠した。享年73。死因は急速進行性間質性肺炎。八代さんは5ヵ月前に膠原病を公表し活動休止中だった。
訃報をメディアが伝えたのは、年が明けて2024年1月9日。世の中を悲しませた。八代さんは色気のあるハスキー・ヴォイスが持ち味。「舟唄」「雨の慕情」など、主に演歌でヒットを生んできた。
ヒット曲のまだない若手時代から八代さんと交流のある五木ひろしは、歌謡界で2年後輩にあたる彼女の訃報を自宅で聞いた。
「妻が報道番組で知りまして。あわてて僕に伝えに来ました。涙声でね。妻は僕と八代さんが長い付き合いであることや、慕ってくれていたことをよく知っていますから」
突然の訃報に五木は声も出なかった。
「1週間経った今もまだ、彼女がいなくなったことが信じられません。ふと現れるような気がしてね。近々お別れの会をやるそうです。そのとき初めて実感するのかもしれません」
最後に八代さんに会ったのは2023年4月。NHKの音楽番組『うたコン』の現場だった。
「彼女が膠原病で活動休止する前です。『うたコン』のときは身体の不調はまったく感じられませんでした。いつもどおり挨拶をしてくれて、僕も声をかけてね。あれが彼女との最後になるとは」
出会いは銀座のクラブ「エース」
五木と八代さんが出会ったのは1969年。当時の五木はデビューしたもののヒットに恵まれず、3つ目の歌手名・三谷謙として銀座のクラブで歌っていた。
「銀座のエースというクラブです。僕は弾き語りのスタイルで歌っていました。その店に、クラブ歌手として八代さんが入って来た。店のママに、彼女にも歌わせてあげて、と紹介されました。エースはあまり大きな店ではなく、ハウスバンドはいません。だから、彼女はいつも僕のギターの伴奏とリズムボックスで歌っていました」
歌手としての八代さんに五木は魅力と可能性を感じた。
「ギターを弾きながら横で聴いていると、ハスキーな、いい声でね。彼女だからこその声質やスタイルがありました。あのハスキーな声は貴重でした。彼女は青江三奈さん以来の逸材じゃないかな。聞くと、前にいた店でジャズを歌っていたという。ハスキー・ヴォイスというのは持って生まれたものでね。練習して身に付くものではありません。彼女のお父さんがジャズを好きだったらしく、10代からジャズを聴かされていたそうです」
八代さんは熊本出身。アメリカのシンガー、ジュリー・ロンドンに憧れて歌手を目指し、16歳のときに熊本から東京に出た。ジュリーのレコードに入っていたライナーノーツの「一流シンガーはクラブで歌っている」という記述を信じてクラブ、エースのドアを叩いた。
「彼女は演歌を歌っても、ジャズのフィーリングが混ざりましたよね。それが個性にもなっていた。洋楽的なノリがあってね。唯一無二の歌唱でした。2012年には『夜のアルバム』というジャズのスタンダードを歌ったアルバムも出しています」
銀座時代は2人でよく食事もした。
「実は僕はよく覚えていなかったんですけれどね。BS-TBSで僕の思い出の地を訪ね歩く番組があって、彼女が出演してくれていろいろと思い出しました。銀座のアマンドでご馳走してくれたよね、ここでハンバーグを食べたね、とか。彼女はすごくよく記憶してくれて。びっくりしました。懐かしかったですね」
八代さんの歌に才能を感じた五木は音楽関係者を紹介した。
「僕自身、五木ひろしとして『よこはま・たそがれ』のヒットが出る前の時代でしょ。彼女を世話している立場じゃありません。でも、あの才能を埋もれさせたままではもったいないと思った。だから自分のことはちょっと横において、プロダクションや音楽関係者を紹介しました。そのタイミングでは実を結びませんでしたけれど」
再スタート
翌1970年に五木はクラブ、エースを去る。退路を断ち讀賣テレビの『全日本歌謡選手権』に出場した。
プロアマを問わず歌合戦の形式で競うスリリングな構成で毎週25%を超える高視聴率を稼ぐ番組だった。10週間勝ち抜くとグランド・チャンピオンとなり、レコーディングのチャンスをつかむ。五木は見事10週間勝ち抜いた。
1971年、五木は三谷謙から歌手名・五木ひろしに。再スタートの1曲目「よこはま・たそがれ」が大ヒットとなった。
すると2年後の1973年、八代さんも『全日本歌謡選手権』に挑戦。10週間勝ち抜き、グランド・チャンピオンになった。
「彼女は『なみだ恋』という曲と出合ってヒットさせ、キャリアに花を咲かせました。銀座のクラブ、エースから全日本歌謡選手権。僕と同じルートで彼女も再スタートを切ったわけです。思えば、銀座の時代から八代さんは妹のような存在でした。僕の気持ちを彼女もわかっていて、ずっと後を追いかけてきた」
ブレイクした後も八代さんはずっと五木を追い続けた。
「長く歌謡界で切磋琢磨した彼女がこの世を去ってしまった。昭和がさらに遠のいたように感じています」
五木は無念の言葉をもらした。
「彼女がいなくなったことには僕もこたえていますが、女性歌手たちもとてもツラいでしょう。歌謡界でトップを極めた、目標とする対象、存在がいなくなったわけですから」
※次回へつづく