漢民族の一派“客家”の血を引く家庭に生まれ育った起業家・秋山広宣が、経営者としての才能を開花させた幼少期のエピソードを紹介した第1回。続く第2回では、19歳で経験したアメリカ留学での挫折から、ラッパー「日華」としてプロ野球や北京オリンピックに楽曲を提供するまでに至った経緯を紐解いていく。【1回目はコチラ】
10年ごとに訪れる人生のどん底
「これまでの人生をグラフにするなら、基本的にずっと右肩上がりです。10代でヒップホップに出合い、20代でラッパーとしてデビュー、30代で起業した会社も業界トップクラスのシェア率を誇るグローバル企業にまで成長しました。
でも、不思議なことに19歳、29歳、39歳って、10年周期で人生の “どん底時代”があったんです。重度のうつ病に苦しんだり、それまでの仕事を辞めて無職になったり。まさに“どん底”まで突き落とされました」
モバイルバッテリーのシェアリングサービス「ChargeSPOT」を運営するグローバル企業INFORICH。その代表取締役を務める秋山広宣は、ラッパーから起業家に転身した自らの人生を振り返りそう語った。
秋山がラッパーを目指し始めたのは、日本で生活をしていた10代の頃。香港に住んでいた友人に、ヒップホップを紹介されたのがことの始まりだったという。
「ヒップホップに興味を持ったのは、小学校の時に出会った台湾人の親友がきっかけです。中学生の頃は、福島県いわき市に住んでいたんですが、夏休みになると生まれ育った香港に里帰りをしていて。
その頃、香港ではスケートボードが流行っていて、親友に誘われて一緒に練習を始めたんです。そこで彼がよくBGMとして流していたのがヒップホップで。遊びながら聞いているうちに、いつの間にかハマっていました」
しかし、日本ではまだヒップホップが広く知られていなかった時代。香港で出合ったヒップホップをどうしても日本で楽しみたかった秋山は、中学2年生の時に初のターンテーブルを購入。遊びながらDJのやり方を学んだという。
さらに、15歳になった頃には、日本語、英語、広東語の3ヵ国語を組み合わせたラップの制作も開始。中学生ながらラッパーとしての道を少しずつ歩み始めていた。
アメリカ留学で経験した初めての挫折
高校卒業後、ヒップホップ発祥の地であるニューヨークを目指し、アメリカの大学に留学した秋山。しかし、実際のアメリカでのキャンパスライフは、秋山が想像していたものとは大きく異なったという。
「香港のインターナショナルスクールに通っていたので、英語には自信があったんです。でも、アメリカでは英語を話せるのは当たり前のこと。日々の授業や課題をこなすのに必死でした。
しかも、現地のラッパーたちのレベルは、日本でラップをしていた自分より圧倒的に上を行っていて。まさに“苦学”を味わう生活の中で、自分が抱いていた夢が脆くも打ち砕かれてしまいました」
そんな苦しい大学生活を送っていた秋山は、1年ほどで大学を中退し日本に帰国。19歳で人間不信や言語障害に悩まされ、病院を受診したところ重度のうつ病と診断された。
「これが初めての“どん底”でした。医者には3年は抗うつ剤を飲み続けないと、フラッシュバックで症状が再発するだろうと言われて。言語障害で上手く言葉が出ず、ラッパーとしての夢も諦めかけていました」
厳しい闘病生活を覚悟していた秋山だったが、日本での療養生活の結果、うつ病の症状は6ヵ月ほどで回復。印刷関係のベンチャー企業に入社し、どうにか社会復帰を果たした。
ゼロから始めたラッパー活動
その後、会社員として仕事をしていた秋山は、いくつかの仕事を掛け持ちしながら、プライベートで音楽活動を続け、2005年に3曲を収録した自主制作CDを発売。ラッパー「日華」としての活動をスタートさせた。
同年、ファッションブランドのDIESELが主催する「DIESEL-U-MUSIC AWARDS 2005」のアーバン部門で優勝。Def Techなどのアーティストが所属する芸能事務所「Euntalk」に入り、多くの歌手やミュージシャンとの交友関係を広めていった。
「同じ事務所に所属していたDef TechのMicroさんが東京都大田区の蒲田出身で、僕も蒲田に住んでいたのでよく遊んでいて。アーティスト仲間からブランディングのやり方などを学んで、一緒に切磋琢磨しながら音楽活動を続けていました」
2006年にリリースした1stミニアルバム『来恩』には、Def TechのMicroがプロデュースやバックヴォーカルを務めた2曲を収録。人気アーティストとのコラボということもあり大きな注目を集めた。
また翌年には、ユニバーサルミュージックからメジャーデビューを果たし、初のCD発売からわずか2年という短い期間で、プロのラッパーとしての地位を確立。さまざまなメディアにも取り上げられるようになっていた。
スポーツ界で日の目を見た代表作『NO.1』
そんな秋山にとって大きな転機となったのが、当時、東北楽天ゴールデンイーグルスに所属していたプロ野球選手・岩隈久志の登場曲に、代表作『NO.1』が抜擢されたことだったという。
「岩隈選手とは、もともと家族ぐるみの付き合いで。ある日、勢いで『新曲ができたんで、何かに使ってくれません?』って話したんです。そしたら、試合の登場曲に『NO.1』を使ってくれることになって。
本当にダメ元だったんです。ロッテの元親善大使だった妻から、『あんた、誰に何を言ってるのかわかってる?』って怒られたくらい(笑)。でも、ダメならダメで傷つくことはないし、何ごとにもトライしてみたかったんです」
そして、2008年から岩隈選手の登場曲として使用されるようになった代表作『NO.1』。当時、岩隈選手が投手の3冠(最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振)を達成したこともあり、多くの野球ファンからも人気を集めた。
また、同年に開催された北京オリンピックの男子ビーチバレーでも、代表曲『NO.1』が応援ソングとして使用されることに。起用のきっかけは、日本代表として競技に出場していた白鳥勝浩選手との交友関係だったという。
「男子ビーチバレーの白鳥選手が、蒲田に住んでいたことから仲良くなって。『この曲は、元気が出るから』って、オリンピックの登場曲に使用してくださったんです。本当に人との繋がりの大切さを実感しました」
幼い頃から“人脈”の大切さを父親から教わってきた秋山。アーティストだけでなくアスリートやさまざまな業界で働く人々とのネットワークが、ラッパー「日華」としてキャリアを生み出してきた。
19歳で経験したアメリカ留学の挫折と厳しい闘病生活。しかし、夢破れた時代があったからこそ、逆境の中で自らが進むべき道を見いだすことができた。そんな秋山の人生は、まだ始まりに過ぎないのだ。
※3回目に続く