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2023.12.13

世界の食通をうならせた天才シェフ、脇屋友詞が“作られる”まで

2023年暮れ、脇屋友詞シェフは50年におよぶ数奇な料理人人生をつづった自伝『厨房の哲学者』を出版。そして超革新的な中国料理店『Ginza脇屋』を東京・銀座にオープンさせた。ヌーベル・シノワの旗手、モダン・チャイニーズの鬼才と謳われ、国内はもとより香港や台湾、ニューヨークの食通をも震撼させた天才シェフはいかにして「作られた」のだろうか。インタビュー前編。

中国料理人

世界の食通を震撼させた天才シェフ、脇屋友詞

脇屋友詞という若い料理人の名が東京の美食家の間でささやかれるようになったのは1980年代の終わり。

世間は空前絶後のバブル景気に浮かれ、一億総グルメが流行語となり、外国帰りのスターシェフたちが都心に続々と名店を開業した時代のことだ。

脇屋シェフは他の誰にも似ていなかった。まず何よりも、彼の料理はフレンチでもイタリアンでもない。東京郊外、立川市の結婚式場付きホテルの3階にあった彼の料理店『楼蘭』で饗(きょう)されるのは、世界中の誰もが食べたことのない新しい中国料理だった——。

2023年暮れ、脇屋シェフは50年におよぶ数奇な料理人人生を1冊にまとめた自伝『厨房の哲学者』を出版し、東京の銀座5丁目に中国料理店『Ginza脇屋』をオープンさせた。

中華鍋ではなく窯を中心に据えた超革新的な料理店。その開業準備で忙しい脇屋シェフに話を聞いた。

ヌーベル・シノワの旗手、モダン・チャイニーズの鬼才と謳われ、国内はもとより香港や台湾、ニューヨークの食通をも震撼させた天才シェフはいかにして「作られた」のか?

料理人は易学者の親父の思いつき

新著『厨房の哲学者』のなかに、脇屋シェフは「料理人になりたいと思ったことなど一度もない」と記している。札幌で育った少年時代はガキ大将で、自分の将来など考えたこともなかった、と。

そんな脇屋少年がなぜ中国料理の道を歩むことになったのだろう。

「簡単に言えば、易学者の親父の思いつきです。『お前には食神、食の神様がついている。だから食に関係する仕事に就けば成功する』って、占いに出てるって言うんです。占いで僕の人生を決めないでくれって、心の中では思いましたけど(笑)。

大正生まれの厳格な親父には逆らえず……。中学校卒業と同時に、赤坂にあった『山王飯店』の厨房に入りました。15歳にして店の寮に入り、住み込みで大人と一緒に働き始めたんです。それが辛くてね」

何がいちばん辛かったのか。肉体的なこと、それとも精神的なこと?

「中学校の友人たちはみんな高校に進学するわけですよ。中学時代最後の春休みだって友だちがみんな遊んでいる時に、僕は先輩のお下がりの油で真っ黒になった白衣を着て、中華鍋は大きくて重くて持ち上げるのも一苦労で、その中華鍋を朝から晩まで何百枚、何千枚と洗わされるんです。

掃除で足元は水浸しだから、新入りはサンダル履きで靴下も履いちゃいけなくて、手も足もあかぎれだらけ。親方たちはみんな中国の人で、厨房で使うのは中国語だから何を言ってるかわからない。先輩や親方に毎日怒られて、落ち込んで、みじめな思いをして。

しかもあの時代の日本の名だたる中国料理店では、中国人じゃないと親方にはなれなかった。僕みたいな日本人には出世の道が閉ざされていた。精神的にも肉体的にも辛くて、何度も辞めることを考えました」

その頃の自分に声をかけられるとしたら、何と言ってあげたいか。

「『よく辞めずに続けたね』と、言ってあげたい。もしもあそこで辞めていたら、今の僕は存在しない。中国料理という天職に巡り合うことはできなかった。

労働時間は長いし、給料はとにかく安いし、今でいえばブラックな職場です。人生の暗黒時代(笑)。だけど今にして思えば、あの暗黒時代が僕には絶対に必要だった。お袋になだめすかされて、なんとか辞めずに続けられたんだけど……。

お袋も最初の頃は、『友詞ならきっとできる』とか『もうちょっとだけ頑張ってみなさい』とか、優しくなだめてくれたんだけど、確か3回目だったかな、僕が『辞めたい』と言ったら、ものすごく怒りましてね。

『いいかげんにしなさい。いつまでそんな甘えたことを言ってるんだ。男だったら3年は我慢して一所懸命働きなさい。それでも駄目だったら、辞めて自分の好きなことしなさい』って」

中国料理の面白さ、奥行きの深さの虜に

いつもは温和でひたすら優しい母親に激怒され、衝撃を受けて、なんとか3年続けているうちに、不思議なことが起きたという。

「親方たちが中国語で何を言っているかがわかるようになったんです。流しに向かって中華鍋を洗っていても、自分の背中で何が起きているかわかるようになった。

厨房で起きている、いろんなことが見えるようになった。あの時代の日本の大きな中国料理店は、中国本土や香港、台湾という中国料理の本場から超一流の料理人を招聘していたんです。親方たちの技術がいかにすごいか。それが、見えるようになった。

それと同時にいつしか、中国料理の面白さ、奥行きの深さの虜になっていた。自分の一生をかけてこの道を歩んで行こうと、そう決心したんです。最初は辞めることしか考えてなかったのにね」

最初からヌーベル・シノワ、つまり新しい中国料理を志向したわけではない。

彼が魅入られたのは、長い歴史を持つ中国料理の驚くほど多彩な技法であり、手間暇をかけて食材の美味しさを極限まで引き出す工夫の数々だった。

だから目の前の親方や先輩を目標に、ひたすら地道に腕を磨いた。王道の中国料理の料理人であることを目指した脇屋シェフが、モダン・チャイニーズの旗手と呼ばれ、本場中国の料理人たちからも教えを乞われるようになるに至ったのはなぜか?

(後編へ続く)

脇屋友詞/Yuji Wakiya
1958年北海道札幌市生まれ。大森市立第八中学校を卒業後、赤坂『山王飯店』、自由が丘『楼蘭』、東京ヒルトンホテル/キャピトル東急ホテル『星ケ岡』などで修業を積み、27歳で立川リーセントパークホテルの中国料理長に就任する。現在は『Wakiya一笑美茶樓』『トゥーランドット臥龍居』など都内に4店舗の中国料理店を経営する。2014年、秋の叙勲にて黄綬褒章を受賞。公益社団法人日本中国料理協会会長。2023年12月東京・銀座5丁目に『Ginza脇屋』を開業した。

TEXT=石川拓治

PHOTOGRAPH=操上和美

HAIR&MAKE-UP=AKANE

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