ジブリの頭脳・鈴木敏夫プロデューサーへのインタビューを交えながら、その圧倒的なまでのブランドパワーと、その類い稀なる創造性の核心に迫った伝説の企画を振り返る。第1回。※GOETHE2006年10月号掲載記事を再編。掲載されている情報等は雑誌発売当時の内容。 【特集 レジェンドたちの仕事術】
消費者から最も評価されているブランド
もはや同義語ともいえる「宮崎駿」と「スタジオジブリ」。かたや妥協なき制作の希求に応え、かたや天才の創造を支えてきた、その共闘の歴史と互いの関係性をここで総括してみよう。
サハラ砂漠に吹く熱風ー。
その名の由来とおり、日本の、いや世界の映像エンターテインメント界に熱い風を送り続けてきた、我が国で最も有名なアニメーション制作会社・スタジオジブリ。
日経BPコンサルティングの市場調査による「2006年に消費者から最も評価されているブランド」として、トヨタや前年トップだったソニーを抑えて堂々1位の座に輝き、もはや生業だけに留まらないネームブランドの王として、その名を大きく世に轟かせている。
一般的には「ジブリ=宮崎駿監督のアニメーション映画」と同義語になっている部分があるかもしれない。
もちろん『火垂るの墓』(1988年)『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年)の高畑勲監督や、『猫の恩返し』(2002年)の森田宏幸監督など、いろいろな作家の作品も創り上げてきているが、わりあいと多くの人は同社に対し、宮崎駿監督を後ろ支えする“夢の工房”という漠然としたイメージで捉えている。
あるいはトトロやジジのグッズなど、キャラクター商品や版権ビジネスを中心とし、アニメーション制作はその一部だと考えている人も意外に少なくないのだ。
スタジオジブリの成り立ち
そもそもスタジオジブリの成り立ちだが、1985年、宮崎駿のオリジナル長編アニメーション映画『風の谷のナウシカ』(1984年)の製作後に徳間書店の出資によって株式会社として設立された会社である。
映画や小説などでは往々にして「作家は処女作にその全てが集約される」と言われるが、『ナウシカ』が「自然と人間」というテーマを内包し、さらにはそれが『となりのトトロ』(1988年)や『もののけ姫』(1997年)などにおいても言及されるに、ジブリに対しても世間は「自然を大切にするクリーンな企業」というパブリックイメージを抱くことになる。
そして1986年、宮崎駿監督初の劇場用オリジナル作品として制作された『天空の城ラピュタ』が、実質上のスタジオジブリ第1回作品といっていい。
もちろん、その頃はジブリという名前にブランド的価値を見出す者はなく、またそれを定めようと思う者すら存在しなかった。
そして、アニメファンには名高い存在だった宮崎駿も、当時はまだ今のような一般的な知名度を有しておらず、世に送り出す作品は興行的に大きな苦戦を強いられていた。
それは今やジブリのトレードマークとなっている『となりのトトロ』も例外ではなく、二本立てで配収5億8800万円という数字は『ナウシカ』の7億4200万円を下回り『ラピュタ』の5億8300万円にも及ばない低結果となってしまったのだ。
宮崎駿作品の弱点を克服した鈴木敏夫
ただ、『トトロ』によってジブリが得たものは大きかった。
ひとつは作品評価を一部のアニメファンだけでなく、評論家レベルにまで高めたこと。『キネマ旬報』の年間ベスト10ではアニメーション作品として史上初の第1位に輝くなど、その年の国内の映画賞を独占したのである。
そしてもうひとつが、キャラクター商品という分野での成功。トトロのキャラクターグッズは公開から10年の間に1000以上の種類を生み、莫大な売上利益のみならず、ジブリの名を広く深く大衆に拡げていくこととなる。
しかし、当時のジブリはそうした長期的展開より、ひっ迫した目先の問題と対峙せねばならなかった。
映画の高評価はそれとしても、興行成績の不調は大きな問題で、配給会社はどこも宮崎駿作品だというだけで及び腰となり、そうした風評はジブリの進退問題にまで発展しかねない。
だが、そんなネガティブ要因を見事なまでに断ちきったのが、名実ともにスタジオジブリの“顔”となった鈴木敏夫だ。
鈴木はジブリが立ち上がった当時は徳間書店刊行の月刊アニメ雑誌『アニメージュ』の副編集長を務めており、その絡みで『風の谷のナウシカ』の映画化に尽力した人物だ。
そんな鈴木が1989年にジブリに異勤となり、興行成績の伸び悩みという宮崎駿作品の弱点を克服すべく、メディアを通したパブリシティ(宣伝)に大きな力を入れる。
日本テレビを協賛に得て、TVスポットのほか局をあげて映画の告知に努め、民間企業をも引き込んでいく。こうした協賛作品の宣伝を映画宣伝と別に掲げるスタイルは、「○○は○○を応援します」のキャッチコピーで知られるジブリの宣伝スタイル“特別協賛”のベースとなる。
日本映画興行歴代2位の大ヒット
鈴木のそうした一連の活動と努力が奏功し、『魔女の宅急便』は配給収入21億7000万円という大ヒットを記録、「宮崎駿の作品は売れない」という業界のジンクスを一蹴した。
さらに鈴木はヒットメーカーとして加速度を大きく上げ、大胆な戦略を次々と打っていく。1997年の『もののけ姫』ではTVスポットの大量投入や大規模な試写会などを画策し、公開後は興行収人193億円という日本映画の新記録を樹立する。
そして『千と千尋の神隠し』(2001年)では、コンビニチェーンとの提携による全国大規模なタイアップをはじめとするジブリ史上最大の宣伝を行い、『もののけ姫』の1.5倍超にもなる304億円という驚異的な興行記録を打ち立てる。
そして第52回ベルリン国際映画祭の金熊賞(グランプリ)受賞を筆頭に、国外の映画賞アニメ部門受賞をほしいままにし、極めつきは第75回米アカデミー賞•長編アニメーション部門を受賞。作品としてのクオリティの高さが日本を超えて海外でも証明される形となり、ジブリのネームバリューがさらに上がっていく好循環へと至るのだ。
そうした話題の沸騰がおさまらないなかで制作された『ハウルの動く城』(2004年)では、逆にまったく情報をメディアに出さないことで観客の興味をあおるという真逆の宜伝展開が鈴木によって打たれ、それが結果として興行収入196億円という、日本映画の興行では歴代2位の大ヒットヘと繋がっていったのである。
(次回に続く)