2007年7月、ニューヨーク、リンカーンセンターで催された公演は、辛辣で知られるニューヨーク・タイムズの劇評で類を見ない大絶賛を受けた。十八代目中村勘三郎——現代を生きる歌舞伎役者の新たなる挑戦の舞台裏を、長きにわたり勘三郎を追い続けたノンフィクション作家・小松成美がルポした、ゲーテ伝説の企画を振り返る。第1回。※GOETHE2007年10月号掲載記事を再編。掲載されている情報等は雑誌発売当時の内容。 【特集 レジェンドたちの仕事術】
高い壁に挑む、今を生きる役者の矜持
2007年7月18日。その朝、ニューヨーク・マンハッタンは厚い雲に覆われ、空が落ちるかと思うほどの激しい雨に見舞われていた。十八代目中村勘三郎は、宿泊していたホテルの窓から見える閃光に驚き、ベッドから飛び起きた。
「カーテンの隙間から稲光が見えた。窓に駆け寄り、カーテンを開けると部屋全体がフラッシュを浴びたように明るくなって、雷鳴が響いたんだよ」
それはまるで、いま上演している芝居の一場面だった。
「芝居では雷が轟くと天を見上げてこう叫ぶ。This is a good sign!(いい兆候だぞ)He is only my true friend!(こいつだけが俺の本当の仲間だ)って。稲光を受けながら、思わずその場で英語の台詞を言っていた」
天気が回復したその日の昼、20年以上もニューヨークに住む知人から「早朝の雷など見たことがない」と聞かされ、勘三郎は心の高ぶりを抑えられなかった。
「あのとき、どんな結末になろうとやるしかないんだ、と思ったよ。ニューヨークで芝居の幕を上げたことの覚悟を改めて自分に言い聞かせてね」
それまで胸につかえていた不安や焦りが体の外に押し出されたような気がしたのだった。このとき勘三郎は、今回のニューヨーク公演が目の肥えた観衆から絶賛されるばかりか、辛辣な演劇批評家から俳優として決定的な評価を受けることを、まだ知らなかった——。
ニューヨークの夏の一大イベント「リンカーンセンター・フェスティバル」。勘三郎はこの祭りの呼び物として7月16日の初日に『連獅子』を舞い、二日目から千秋楽の22日まで『法界坊—隅田川続俤』を上演することになっていた。
串田和美が演出し、勘三郎が率いる平成中村座がこのフェスティバルに参加するのは二度目である。2004年7月、当時五代目中村勘九郎だった彼は、芝居小屋をメトロポリタン・オペラハウスの隣に建てた。その公演は連日の満員御礼に加え、ニューヨーク・タイムズの劇評では「『スパイダーマン2』にはないスリルを与えてくれる」と賞賛された。彼の歌舞伎は完璧に理解され、エンターテインメントとして受け入れられたのだった。
だからこそ、再度の参加に、安易に腰を落ち着けてはいられなかった。日本を発つ直前、勘三郎は目を見開き、言った。
「前回とはまた違った歌舞伎を観てもらいたい。そこで、今度は堕落した坊主が主役の『法界坊』を持って行こうと思うんだよ。醜く野卑な悪党が欲望のまま暴れ回る。場面が進めば喜劇から悲劇へと転じ、最後は怨霊までもが現れる。歌舞伎が退屈なものでなくコメディとして楽しめるものだと知ってほしいし、日本の古典がバイオレンスやミステリーの要素をたっぷり含んでいることを伝えたい」
7月5日、現地に到着すると翌日から稽古。今回の平成中村座の舞台は、あのニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の本拠地でもあるエイヴァリー・フィッシャー・ホール。この伝統ある会場で、1784年初演の『法界坊』を演じる。
「223年前の江戸の芝居が串田さんの演出で現代ニューヨーク版に生まれ変わる。今回、芝居を1時間削って短くしました。このスピード感こそがニューヨーク版ならでは。それから、法界坊が腹黒い胸の内を語る場面は、ほとんどの台詞を英語にした。一か八かの賭けだね」
歌舞伎には無限の可能性がある
これまで行われてきた幾多の歌舞伎海外公演。しかし、役者が芝居のなかで英語を話したことなど一度もない。
「はじめてのことだから挑戦してみたい。もちろん古典は大事だよ。でも、古典にがんじがらめになって新しい表現を否定することしかできない者にはなりたくない。ときどき歌舞伎が誕生した四百余年前のことを考えるんです。歌舞伎は、今、伝統という型にはめられ守られているよ。でも、歌舞伎って元来既成の破壊から始まった芝居なんだから」
歌舞伎役者は現在に置き換えれば、パンクロッカーやラッパーのような存在だ。
「常に周囲の人々をあっと言わせ、お上にだって抵抗するような者たちだった。それなのに、現在はそうしたパワーとは対極にある守りの姿勢に入っている。僕はそのことに恐れすら感じるんです」
闘争心を滾(たぎ)らせる勘三郎はどんな瞬間も、歌舞伎には無限の可能性があることを示したいと思っていた。
最終的に芝居の3分の1を英語で演じることを決めたのは8ヶ月前。自宅や歌舞伎座の楽屋で準備を重ねた。まず、法界坊の悪態や独特のジョークを英訳し、それを暗記。直訳では伝わらないからと、ホットな言い回しや単語を盛り込んだ。そして、数ヶ月の特訓の末、覚えた英語台詞を磨きあげるため、5月にはニューヨークで発声と発音のレッスンを受けた。
また、串田・勘三郎による新演出の稽古にも膨大な時間が割かれた。
「土手で穴を掘る場ではシェークスピアへのオマージュを。最後の場面には派手な立廻りを用意します。圧倒的な視覚的迫力を持たせたい。デビッド・カッパーフィールドのように決めたいね」
7月16日、幕が開いた。オープニングの『連獅子』は、数日前の新聞で「歌舞伎版ライオンキング」と紹介されたこともあり、1500席が全て埋まっていた。
勘三郎と並ぶ勘太郎と七之助の舞いもきりりと鮮やか。その華やかな色彩とアクロバティックな動きに、ホールは喝采に沸く。スタンディングオベーションの中には、元国務長官のヘンリー・キッシンジャーもいる。
しかし、『連獅子』を終えた勘三郎は、途轍もない不安に苛まれていた。明日からの『法界坊』が、江戸から受け継がれた芝居であり、グロテスクに見えて実は喜劇を軸にした人間ドラマであることを真に伝えられるのだろうか。珍しく憂いが言葉となって口を衝いた。「『法界坊』じゃ、『連獅子』のようにはいかない」と。
十八代目中村勘三郎/Kanzaburo Nakamura
本名、波野哲明。1955年、昭和の名優と謳われた十七代目中村勘三郎の長男として東京に生まれる。59年、3歳で五代目中村勘九郎として歌舞伎座『昔噺桃太郎』の桃太郎役で初舞台。以後、江戸の世話狂言から上方狂言、時代物、新歌舞伎、舞踏まで、どんな役でも圧倒的な芸をみせる。2005年、十八代目中村勘三郎を襲名。2012年死去、享年57。