2007年7月、ニューヨーク、リンカーンセンターで催された公演は、辛辣で知られるニューヨーク・タイムズの劇評で類を見ない大絶賛を受けた。十八代目中村勘三郎——現代を生きる歌舞伎役者の新たなる挑戦の舞台裏を、長きにわたり勘三郎を追い続けたノンフィクション作家・小松成美がルポした、ゲーテ伝説の企画を振り返る。第2回。※GOETHE2007年10月号掲載記事を再編。掲載されている情報等は雑誌発売当時の内容。 【特集 レジェンドたちの仕事術】
これまでと比べものにならないほど高い壁
翌17日の昼にリハーサルを行い、夜にはいよいよ本番。その公演を終え、楽屋に戻った勘三郎の表情は冴えない。
「実際、英語で台詞を言っても日本でのようには大きな笑いが起こらない。ほぼ席は埋まっていたけど、超満員じゃなかったしね。英語はきちんと伝わっているのか、難解なストーリーが理解されているのか、頼りない気持ちになるんだよ」
勘三郎は自ら進んで乗り越えようとしている壁が、これまでと比べものにならないほど高いことを実感していた。
「ニューヨークで歌舞伎役者と名乗りたいなら『連獅子』を舞えばいい。あの演目は、歌舞伎役者にしかできないから。デ・ニーロだって、アル・パチーノだってできない。でも、『法界坊』は台詞と演出を覚えれば彼らにも演じられる。つまり、僕はブロードウェイやハリウッドの俳優と同じ土俵に上がってしまったんだ」
自分で望んで上がった土俵だが、そこで赤子のようにねじ伏せられ負けたなら、もう二度とはその土俵には上がれない。
楽屋で思いに耽る勘三郎の元に、前回公演以来の再会となるアクターズ・スタジオの名誉学部長、ジェームズ・リプトン氏が訪ねてきた。
「リプトンさんは、僕の目を見て『あなたが観客に伝えたかった全てを、私は理解した。そしてそれは私だけじゃない。今日この芝居を観た全てのアメリカ人が同じ気持ちでいますよ』と言ってくれた」
その言葉を静かに聞いていた勘三郎は、もう舞台から逃げ下りることはできない、と顔を上げた。そして、翌日から舞台を縦横無尽に駆け回り、新たな法界坊を全身全霊で演じることを誓ったのだった。
「初日はお客さんが少し戸惑っているように見えたけど、二日目は甲高い笑い声が会場から沸き上った。客席から熱気が迫り、それに負けまいと胸を張ったよ」
そして勘三郎は、19日の朝、ニューヨークタイムズに掲載された劇評を読む。
Mr. Kanzaburo is cutting up with an audience-seducing brio that invites comparison to any great stage comic you could name, from Jimmy Durante to Bert Lahr to Nathan Lane.
見事に観客を挑発する勘三郎の姿を見ると、偉大なる喜劇役者ジミー・デュランティやバート・ラー、ネイサン・レインを思い出す。
But the startling shift in tone is emblematic of an entertainment created to be all encompassing, mixing dance and drama, comedy and mystery, song and spoken word. Despite its self-consciously assumed irreverence toward traditional practices, “Hokaibo”incorporates all the essential elements of classic Kabuki
トーンが急激に変化し、ダンスとドラマ、コメディとミステリー、歌とセリフが絶妙に混ざり合い、そして広がり、エンターテインメントの頂点にたどり着く。伝統から切り離すという意図にもかかわらず、「法界坊」は古典歌舞伎の全ての要素を含んでいる。
a feat of the actor’s art that ultimately does inspire something close to awe.
俳優の業とは、究極的には、畏れに近いものだということを思い起こさせる。
THE NEW YORK TIMES
2007年7月19日 ニューヨーク・タイムズ芸術欄より
僕が目指したことは間違ってなかった
「リプトンさんの言葉が現実になったんだ。言葉を尽くして説明するまでもなく、僕が伝えたかったこと全てをこの批評家が受け止め、文章にしてくれた」
その劇評は全編、芝居の面白さと歌舞伎の深遠さを書き綴ったものだった。猥雑で下品な台詞も立ち振る舞いも、すなわち上質なコメディであり、歌舞伎の奥深さだと分析する文章には、アメリカの喜劇俳優たちの名が連ねられていた。
「ミュージカル『プロデューサーズ』でトニー賞に輝いたネイサン・レインと比べられているんだよ。僕が目指したことが間違ってなかったと実感できたし、歌舞伎もシェークスピア劇のようにアメリカでも楽しんでもらえると自信が持てた」
ニューヨークの劇場では安いチケットから売れることが常だ。初日は高い200ドルの席がちらほら空いていたが、この劇評が出て以後、空席はひとつもなくなった。そればかりか、チケット代は500ドルにまで跳ね上がったのである。
そこから勘三郎の快進撃が始まる。舞台に出るたびに感じられる確かな手応えは、自信となって彼を動かした。千秋楽までの時間は矢のように過ぎ去った。
最後の公演では、3回のカーテンコール。鳴りやまぬ拍手が勘三郎を包んだ。
「最後に舞台に出てくれたニューヨークのスタッフと何度もハグしながら、必ずまたやろう、と声を掛け合った」
来年にはドイツとルーマニアでの公演が決定した。勘三郎が抱く歌舞伎の未来像は、今なお変容し続けているのだ。
初日の前にセントラルパークで上演されていた『ロミオとジュリエット』を観に行った。そうしたら一面に水が張ってあって、その上をゆっくりと回る舞台がある。それがさ、6月に僕たちがやったコクーン歌舞伎の『三人吉三』とまるで同じ舞台装置なんだよ。歌舞伎でもシェークスピアでも、みんな新しい表現を求めているんだね。これまで垣根があって見えなかった世界が、今ははっきりと見渡せるような気がして嬉しいんだ」
勘三郎は、これからも今を生きる役者として世界を意識するだろう。そして、自らに過激なアジテーションを飛ばしながら新たな歌舞伎を求めてひた走るのだ。
十八代目中村勘三郎/Kanzaburo Nakamura
本名、波野哲明。1955年、昭和の名優と謳われた十七代目中村勘三郎の長男として東京に生まれる。59年、3歳で五代目中村勘九郎として歌舞伎座『昔噺桃太郎』の桃太郎役で初舞台。以後、江戸の世話狂言から上方狂言、時代物、新歌舞伎、舞踏まで、どんな役でも圧倒的な芸をみせる。2005年、十八代目中村勘三郎を襲名。2012年死去、享年57。