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2024.02.25

【刀伊の入寇】道長に敗れたほうの藤原氏、左遷先で海賊から日本を救ったのに恩賞はゼロ!?

藤原道長をはじめとした貴族たちが栄華を誇っていた平安の世。日本国内では大きな争いはなかったものの、海外はまったくそうではなかった。外界から、日本に侵攻してきた輩がいたのだ。これは、そんな略奪者から日本を守った英雄たちの物語。 『胸アツ戦略図鑑 逆転の戦いから学ぶビジネス教養』(サンクチュアリ出版)の一部を再編集してお届けする。【その他の記事はコチラ】

胸アツ戦略図鑑 逆転の戦いから学ぶビジネス

平和ボケする日本、世紀末的に荒れる東アジア

日本では貴族たちが政治的にも文化的にも最盛期を迎える中、中国や朝鮮など、東アジア地域は激動の時代でした。

当時は海を介した国際交流が盛んでしたが、情勢が悪化すると海上を暴れまわる海賊たちが出てきたのです。日本で彼らは「刀伊(とい) 」と呼ばれていました。

日本は荒れている東アジアの国々と関わらないことでトラブルを避けようとしていましたが、ワルというのは、関わりたくないと思っても勝手に因縁をつけてくるもの。

「オマエ、今ガンつけてただろ!」と言わんばかりの勢いで、図らずも争いに巻き込まれることになっていきます。

左遷された、「道長じゃないほう」の藤原氏

この時期の日本では、天皇の外戚(天皇の母親や妻の一族)として絶大な存在感を発揮した藤原道長がこの世の春を謳歌(おうか)していました。しかし、藤原氏が栄華を極めていた裏で、藤原氏同士による内輪揉めも当然ありました。

その中で道長に敗れた人物こそが、今回の主役・藤原隆家(ふじわらのたかいえ)です。

隆家は兄とともに道長最大のライバルとして知られ、「荒くれ者」と呼ばれるほど豪快で規格外な人物でした。

しかし道長に敗れると眼病を患い、どん底の状態で大宰府(だざいふ/現在の福岡県太宰府市)への赴任が決まりました。大宰府は日本と東アジアの玄関口として重要な場所でしたが、都から大宰府へ向かえば「下向(げこう/都から田舎へ下る)」と言われた時代。控えめに言っても「左遷」でしかなく、出世の望みは絶たれたといってよいでしょう。

道長に敗れた没落貴族=隆家として、歴史に名を刻まれていたかもしれませんが、運命とは不思議なもので、隆家の名がこうして語り継がれる原因となった事件は、大宰府赴任後に発生しました。それが、刀伊たちの侵略事件だったのです。

刀伊、九州を襲撃する

隆家が大宰府へ向かってから約4年後の1019年3月28日。突如衝撃的な事件が起きます。刀伊のものとみられる海賊船約50艘が、対馬・壱岐をいきなり襲撃したのです。刀伊は殺人や放火、略奪を行い、対馬では18人、壱岐では現地の守備を指揮した司令官を含め148人が殺害されるなど、甚大な被害が出ました。

何とか生き延びた人から隆家のもとに連絡が届いたのが4月7日。

「これは大変なことになった……」。隆家はそう感じたはずです。というのも、日本の領土が外国からこれほど大規模な襲撃を受けたケースはほとんどありませんでした。つまり、隆家はもちろんのこと、この時代に刀伊の入寇レベルの侵略者との戦争を経験したことのある指揮官などいなかったのです。

加えて、敵の行動は迅速でした。大宰府に第一報が入った時点で刀伊は筑前の国怡土郡(ちくぜんのくにいとぐん/現在の福岡県福岡市西部と糸島市の一部)に上陸し、49人を殺害します。

まさしく「前例のない事態」を前に、数年前まで都で戦争と無縁の生活を送っていた隆家。そんな隆家が現場を指揮していくことになるのでした。

国の危機に集まった精鋭たち

刀伊があらわれてから11日。4月8日には筑前国那賀郡能古島(なかぐんのこのしま/現在の福岡県福岡市沿岸にある島)が襲撃されます。このとき、隆家は「海賊船の速度はハヤブサのようで、とても戦えない!」と都へ書き送っています。

能古島は間もなく落とされますが、隆家はただオロオロしていたのではありません。島からほど近い博多警固所(けいごしょ/当時の防衛施設)に大宰府や現地近くの実力者たちを総動員します。
この部隊にはさまざまな人がおり、武勇で鳴らした大蔵の種材(おおくらのたねき)という70歳を超えた大ベテランも参加しているなど、国の危機を敏感に感じとった精鋭たちが集まっていました。

9日、ついに本土である博多へと来襲した刀伊に対し、日本側は防戦に努めました。矢を主力として十数名の刀伊を討ち取り、粘り強く戦います。結果的に初めての撃退に成功し、拉致されて船に乗せられていた対馬・壱岐の人々も救ったと伝わります。

11日には日本側の防御態勢が盤石となり、優秀な兵たちを配置できるようになりました。そのため、翌12日の襲撃では刀伊を40人ほど討ち取ることに成功。大ベテランの種材らが活躍して、逆に逃げる刀伊を追っていったという逆転劇を見せました。

猛攻を受けた刀伊は作戦を変更し、13日は肥前の国(ひぜんのくに)松浦郡(現在の佐賀県唐津市から長崎県佐世保市付近)から上陸します。現地では略奪を行いましたが、情報がしっかりと伝わっていたのでしょう。守備隊が刀伊数十人を討ち取り、撃退しました。

こうして相次ぐ敗戦を受け、刀伊は日本への侵攻をあきらめ撤退します。外国の侵略という最大の危機は、隆家とその司令のもとに集まった実力者たちによって防がれたのです。

しかし、まったく注目されなかった隆家の功績

隆家たちの大活躍。朝廷も彼らをさぞ評価したことでしょう……と思いきや、そうではありませんでした。

中央政府の対応はとにかく遅く、そもそも、刀伊入寇の知らせが都に届いたのは17日のことです。この時点で危機は去っていたのですが、彼らは「神頼み」(儀式)によって対策を講じたのち、27日にようやく派兵準備に取りかかったと言われています。

さらに、日本を守った隆家を含む戦士たちへの恩賞はほぼゼロ。当時、都でも刀伊の入寇は大いに恐れられたのですが、いったん危機が去ってしまうと喉元過ぎればなんとやら。貴族たちは刀伊の入寇に興味を失ったのです。

それどころか朝廷では「私たちの指示が届く前に無断で行動した隆家たちに恩賞を与えていいのか?」と命令無視の是非が主に論じられ、恩賞がほとんど与えられませんでした。「前例主義」と「現場軽視」は平安時代から始まっていたことだったようです。

ただし、近年では刀伊の入寇が「古代日本最大の異敵(いてき)侵略事件」だったとして、危機を乗り越えた隆家たちの再評価が進んでいます。朝廷に評価されなかったぶん、せめて私たちが彼らの雄姿を語り継ぎたいものです。

前例のない事態に必要なのは現場のスピードと結束。対応の早さこそが力となる。

TEXT=齊藤 颯人 SUPERVISOR=本郷 和人、本村 凌二

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