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2024.02.24

【第一次上田城の戦い】数年で3回もボス変えをした真田昌幸の処世術とは

戦国武将で真田といえば、真田幸村の名前が思い浮かぶかもしれない。……が、実はその幸村をしのぐほどの才能を持っていたのが、その父・昌幸(まさゆき)である。あの秀吉をもってして「油断ならない人物」と評された昌幸。いったい、どのような人だったのか? 『胸アツ戦略図鑑 逆転の戦いから学ぶビジネス教養』(サンクチュアリ出版)の一部を再編集してお届けする。【その他の記事はコチラ】

胸アツ戦略図鑑 逆転の戦いから学ぶビジネス

主が次々と亡くなっていく

戦国の世で頭角をあらわした真田氏は、武田氏の家臣として実力を発揮していましたが、主の武田氏は長篠(ながしの)の戦い(1575年)で信長に敗れてしまいます。この長篠の戦いで、当主の真田信綱(のぶつな)と弟の昌輝(まさてる)が戦死してしまったのです。そこで、他の家に出されていた昌幸が呼び戻される形で新当主となります。

昌幸は、武田が亡き後は信長に従い、織田家の重臣・滝川一益(たきがわかずます)のもとにいました。……が、その3ヶ月後には「本能寺の変」が起き、信長は亡くなります。

すると、すぐさま旧武田の領地をめぐって北条氏直(うじなお)、上杉景勝(かげかつ)、徳川家康といった大名たちが火事場泥棒に参戦し、関東は「天正壬午(てんしょうじんご)の乱」と呼ばれる混乱状態に陥ったのです。

裏切り裏切り、また裏切り

昌幸はこの混沌とした局面で、表面上は一益に従っていました。が、「スキあり!」とばかりに没収されていた沼田城を取り戻し、同時に上杉景勝のもとについたのです。

そのまま領地を拡大していく昌幸でしたが、北条氏直が昌幸の本国・信濃を攻めようとしていることがわかると、「北条に攻撃されてはたまりませんなぁ」と、今度は氏直に従います。

その後、上杉景勝は本国で家臣の反乱が起こったために仕方なく戦線離脱。他方、北条氏と徳川氏は引き続き戦い続けており、北条氏一歩リードの状態でした。

ここで、昌幸のもとに使者がやってきます。家康から「うちを助けてくれない?」と声がかかったのです。この誘いに昌幸は……なんと応じました。北条から家康に寝返ったのです。

たった数年で「上杉 →北条 → 徳川」とボスを次々と変える昌幸。しかしこれは、裏返せばそれほどの力を真田家が持っていたということのあらわれなのです。

事実、昌幸の寝返りは戦況を一変させます。昌幸の活躍で家康は劣勢を一気に覆し、北条と和平を結ぶまでになったのです。

しかし、家康も超やり手。昌幸に利用されるだけの男ではありません。北条が撤兵の条件に、昌幸の持つ沼田・岩櫃城(いわびつじょう)の明け渡しを要求したところ、家康はこの条件にあっさり「OK!」を出してしまいます。

「せっかく活躍したのに、なんで城取られるん……?」と昌幸が感じたことは確実。

そこで、昌幸は実力行使に出ます。城へ訪れた北条方の使者を斬り捨てると、家康の度重なる開城要求を拒否。挙句の果てに、当時家康と信濃で争っていた上杉景勝のもとへ寝返ったのです。まさに、清々しいほどの裏切り劇でした。

家康大激怒。そして始まる第一次上田城の戦い

あっさり家康を捨てた昌幸。しかし、家康は決して昌幸を冷遇していたわけではないようです。むしろ、上杉軍との最前線に位置していた昌幸は、家康にとって欠かせない存在でした。そのため昌幸への支援は惜しまず、家康による多額の投資によって誕生したのが新たな真田家の拠点・上田城だったと言われています。

目をかけてきた昌幸に裏切られた家康は「この恩知らずめが!」と大激怒。1585年8月、計7千とされる兵を、昌幸のいる上田城へ向けました。

対する真田軍の兵力は、わずか2千ほど。このとき昌幸が頼りにしていたのは、景勝率いる上杉軍の救援でした。ところが、景勝は当時他勢力と交戦中で手一杯。なんとか出してくれた援軍も洪水のために到着が遅れたと言われています。

つまり、圧倒的な兵力差がある中、「第一次上田城の戦い」が幕を開けたのです。

大軍を相手にすることが決まった昌幸は、徳川の大軍を上田城におびき寄せて戦うことを選びました。そして上田城下に「千鳥掛(ちどりがけ)」と呼ばれたバリケードを大量に設置します。

他に何をしていたのかと言えば、悠々と囲碁を打ちながら徳川軍の到着を待っていたとか……。

昌幸の立ち回り
昌幸は、武田氏家臣の時代から家中で存在感を発揮していた。特に、1580 年の沼田城攻めにおいては上野国(こうずけのくに)北部(現在の群馬県北部)を支配下に置く大活躍。昌幸の働きぶりは、武田家の当主・武田勝頼(かつより)も絶賛したという。そんな折、昌幸は武田氏の存続が危うくなる中で北条氏に接触し、新たな従属先を探していたと言われている。これは「窮地に陥った主君を見捨てる不誠実な行動」ともとれるが、当時は戦国の世。自分が生き残り、もっとも力を活かせる環境を探して主君を変えることは当然であった(武士が主君に最期まで尽くすことを美徳ととらえるようになったのは、江戸時代以降の話である)。つまり現代的に言えば、昌幸の行動は「転職活動」あるいは「新しい取引先の開拓」であり、「倒産の危機に瀕した会社と運命を共にするか」という状況を見越して賢く立ち回っていたと言える。

家康、いいようにやられる

いよいよ、その日がやってきました。上田城に徳川の大軍が攻めてきます。開戦と同時に、まず動いたのは真田です。昌幸の息子・真田信之(のぶゆき)は別動隊を率いて徳川軍と交戦します。

その目的は、城への誘導でした。「敵に入城を許してはいけない」のが基本ですが、昌幸はわざと入城を誘い、狭い場所で少数精鋭で戦おうとしていたのです。

一方徳川軍は、数で勝るうえ、誘導されているとは気づかず悠々と上田城内へ侵入します。

彼らは二の丸へ放火しようとしたのですが、家臣の間で「火をつけたら中の味方が出てこられなくなって危ないだろ!」と反対が出て中止になりました。戦ではまず城を焼いて丸裸にするのが当時の常識でしたから、実戦経験の少ない武将が多かったのでしょう。このような調子で、徳川軍の兵たちは指揮官たちの思うように動いてくれませんでした。

そして徳川軍が真田軍に苦戦を強いられている中、「このときを待っていた!」と、信之の別動隊が側面を攻撃。徳川軍は総崩れになりました。

やむなく徳川軍は撤退しますが、ただで帰してくれるほど昌幸は甘くありません。撤退時には昌幸が設置した千鳥掛に退路を阻はばまれてスムーズに進めず、徳川軍は350人ほどが戦死する大敗を喫しました。皮肉にも、家康の投資で生まれた上田城が家康を苦しめたのです。

表裏比興の者・真田昌幸

徳川軍を撃退した昌幸は、どうしたのでしょうか?

当然、「許せん!」と徳川・北条連合軍の猛攻撃に遭いますが、なんと今度は彼らと対立した豊臣秀吉に急接近。秀吉の協力を取りつけて戦いに備えたのでした。

すると、家康と秀吉もやがて和平を結び、昌幸も最大の窮地を脱したのです。

なお、上田城の戦いには「第二次上田城の戦い」もあり、こちらは関ヶ原の戦いに関連して発生します。昌幸と幸村が家康の息子・徳川秀忠(ひでただ)の軍勢を食い止めた戦として知られています。

ここで秀忠は城を落とすことに苦戦し、秀忠が関ヶ原の戦いに遅れる原因をつくったという話は有名です。もっとも、関ヶ原の戦いで西軍が敗れたため、西軍に味方した昌幸・幸村は不遇の時を過ごすことになります。

いずれにせよ、秀吉に「表裏比興(ひょうりひきょう)の者(表裏があって油断ならない人物)」と言わしめた昌幸の世渡り術は見事というほかありません。

弱い立場でいい条件を獲得するには、状況に応じて環境を変える柔軟性と意志を曲げずに主張する頑固さも大事。

TEXT=齊藤颯人 SUPERVISOR=本郷和人、本村凌二

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