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2024.02.23

【桶狭間の戦い】奇行に次ぐ奇行! 信長が勝ち目ゼロの戦いで選んだ戦略とは

日本史史上もっとも有名な人物の1人である織田信長。信長が勢力拡大を目指す中で極めて重要な一戦となったのが、今川義元の「桶狭間の戦い」。しかし、その内容はこれまで言われていたこととだいぶ異なるようで……その戦いの戦略とはいかに。『胸アツ戦略図鑑 逆転の戦いから学ぶビジネス教養』(サンクチュアリ出版)の一部を再編集してお届けする。【その他の記事はコチラ】

胸アツ戦略図鑑 逆転の戦いから学ぶビジネス

織田家を悩ませてきた今川家

戦国時代の尾張国(現在の愛知県西部)。この国で大きな力を持っていたのが織田家でした。織田家は、信長の父・信秀の代で一気に力を伸ばしました。

しかし、その織田家を長年苦しめてきたのが、駿河国(現在の静岡県中部)の今川義元です。

今川氏は「海道一の弓取り(東海道で一番強い大名)」と称された義元のもと、東海地方屈指の戦国大名としての地位を確立しました。

この義元の妨害により、織田家は信秀の代で尾張統一をできず、代替わりした信長も一族の内紛に手を焼いていました。1559年にはなんとか内紛を片づけ、尾張のほとんどを統一することができますが、「義元がいる限り、先はない」という状況に信長はいたのです。

作戦会議はなぜか雑談で終わる

1560年、信長は動きます。尾張国の中にありながら、義元におさえられていた鳴海城・大高城の奪還を試みたのです。そのために、信長は2つの城の連携を遮断しようと城攻め用の砦(鷲津砦・丸根砦)を築きました。つまりは、信長が義元にケンカを売ったのです。

これに対し、義元はケンカを買います。

「織田家をおとなしくさせるにはいい機会だ」と考えたのか、義元は4万5千ともいわれる大軍を率い、尾張へと出陣しました。

義元軍は5月17日に尾張の沓掛城(くつかけじょう)へ入り、先発隊に朝比奈泰朝と徳川家康を指名。泰朝には鷲津砦の攻撃を、家康には大高城への兵糧(食料)運び入れと丸根砦への攻撃を命じました。

この両者は見事に作戦を成功させます。

優秀な武将たちが圧倒的大軍を引き連れ、首尾よく作戦を進めていく状況……。どう考えても信長は存亡の危機に立たされていました。

……が、当の信長は18日の夜に家臣を集めて会議を行うも、まったく戦の話を出さず、普通に世間話をしていたと言われています。「殿はついに頭がイカれてしまったか……」と家臣が考えても無理はありません。信長は、いったい何を考えていたのでしょうか。

なぜその道を選ぶ? 奇行の信長

翌19日、義元軍の攻撃があったと知らされた信長は、即座に出陣を決断します。通常、兵力的に不利な場合は城に籠って持久戦をすることがセオリーなのですが、信長はそれをあえて無視した形です(実際、家臣からも籠城を勧められたという話もあります)。

出陣に際し、信長は「人間50年、下天(げてん)の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり(人の世の50年など、天の世界ではたった1日の出来事に過ぎない)」というフレーズで有名な「敦盛」を舞ったと言われています。

一方、義元軍は桶狭間の山に陣を敷いていました。「負ける要素など1つもない」という余裕な状況だったことでしょう。

そんな義元軍に対し、まず信長軍が仕掛けます。2名の家臣が300騎ほどで義元軍に突撃します。しかし当然これは、あえなく敗退となります。

この動きは、信長の陽動作戦とも、単に功を焦った家臣の暴走とも言われていますが、信長はその裏で衝撃的な行動をとります。

敵陣の真正面、低地にある中嶋砦に入ったのです。この何が衝撃かといえば、義元は山の上にいるわけですから、信長軍の動きは義元軍から丸見えになってしまいます。

家臣たちは「これでは義元軍から丸見えです! ただでさえ人がいない(信長軍の兵は2千足らずだったとされる)ことがバレちゃいますよ!」と猛抗議。

が、信長は意に介さなかったと言います。

奇行に次ぐ奇行。いよいよ、何を考えているのかわかりません。

もはや狂気の正面突破

なぜか低地の中嶋砦に陣を敷いた信長。彼の奇行はまだ続きます。

中嶋砦から、何の工夫もなく正攻法の正面攻撃を仕掛けようとしたというのです。

これも、セオリーとしては迂回攻撃をするほうが合理的。というより、正面突破はあまりにもムチャな選択です。

当然、家臣たちは中嶋砦に進んだとき以上の猛抗議。信長を羽交い締めにしてでも進軍を止めさせようとします。

が、信長は「相手は疲れきっているが、こちらは元気だ。大軍を恐れちゃいけない。運は人間の力ではどうにもならないという言葉もある。もしこの戦いに勝てば、お前たちの名は末代(まつだい)まで語り継がれるぞ!」

と家臣を鼓舞します。これで納得したのか、はたまたあきらめたのか……信長軍は結局そのまま出撃することになります。

こうなっては、もはや家臣たちにできることは「死ぬ気で戦う」以外にありません。戦場の兵士たちは誰もが死を覚悟したでしょう。

信長に隠された秘策はあるのでしょうか。……あるはずです。

変わる見方
従来の説では、義元は桶狭間山に布陣していたのではなく、桶狭間の細道で休憩をとっており、そこを信長に奇襲されたという見方が有力だった(もう1つの説として、戦場で兵士が物資を略奪する「乱取り」を義元軍が行っており、その間、がら空きになった陣地を信長に奇襲されたという「乱取り説」もある)。さらに信長の行動も、「正面から戦っては勝ち目がないと判断し、精鋭2000 人を率い、義元の本陣からすぐ北にある太子ヶ根という迂回路を経由し、休憩中の義元への奇襲を試みた」とされてきたが、近年はいずれの説も否定されつつある。このような見方の変化は、信長の足跡を詳細に伝えている『信長公記』に基づいて研究を進めるようになったためである。なお、信長が「相手は疲れきっているが、こちらは元気だ」と言ったのは、家康らが兵糧を運び入れるために夜も行動していたからなのだが、家康はこの日、すでに前線を退いていた。そのため、敵が疲れていたというのは信長の勘違いでは? という説もある。

秘策などなかった!

4万5千の大軍を率いる義元に向かって正面突破を試みる兵2千の信長。信長軍は豪雨の中で兵を進めてゆき、雨が上がったタイミングで襲いかかります。

ここで信長に隠された秘策は……何もありませんでした。本当に、ただただ死ぬ気で正面突破を試みただけなのです。もはや自滅作戦以外の何ものでもありません。

しかし、この狂気じみた行軍がなんと大成功します。信長軍の圧倒的な気迫に押されたのか、義元軍は統率がとれず、一瞬で崩れはじめたのです。仕方なく義元は立て直すために本軍ごと撤退を開始しますが、前軍が崩壊した混乱が本軍にも波及したようです。なかなか思うように進めず、義元軍はますます大混乱。

そんな中、信長は撤退する義元たちの姿を見つけます。「義元はあそこにいるぞ!」。信長がそう叫ぶと、両軍は壮絶な戦いを始めたのです。

多数の死者が出る乱戦となる中、事態は大きく動きます。信長軍の毛利新介が、義元と直接戦うことに成功したのです。

さらに毛利新介はこの戦いに勝ち、義元を見事に討ち取りました。大将を失った敵軍は総崩れとなり、信長は歴史に残る大勝を挙げたのです。

近年、従来の勝因として挙げられていた要素の多くが否定され、信長も多くを語らなかったため「なぜ信長は勝てたのか」が実はよくわかっていないこの「桶狭間の戦い」。

しかし1つ言えるのは、信長は合理性を超えたところに自分の勝ち筋を見出し、それを信じたということ。それにより、信長の言う「運」をも味方につけたのでしょう。

セオリーや思考ではなく、己の身体感覚や直感を信じきることも戦い方の1つ。

TEXT=齊藤 颯人 SUPERVISOR=本郷 和人、本村 凌二

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