日本の歴史において、誰もが知る織田信長。歴史に名を残す戦国武将のなかでも、信長は極めて特異な人物だった。交渉力、絶体絶命のピンチを乗り越えるアイデア力、咄嗟の判断力……。信長の奇想天外で機転の効いた行動は、日々無理難題を強いられるビジネスパーソンのヒントになるだろう。今回は、信長が対武田勝頼軍との戦で見せた驚きの戦い方についてのエピソードをご紹介! 作家・石川拓治さんによるゲーテの人気コラム「信長見聞録」を朗読という形で再発信する。
ほとんど戦わず、戦略で戦に勝つ
武田勝頼との最後の戦に臨んだ信長が、慎重のうえにも慎重を期したのは、戦というものの不可解さを彼がよく知っていたからでもある。戦場では何が起きるかわからない。
小勢が時に何倍もの大軍を打ち破る。万余(まんよ)の軍勢で怒濤のごとく押し寄せた今川義元は、信長のほとんど目の前で頸(くび)を落とされたのだ。大将を失った大軍の信じ難いほどの脆(もろ)さは彼の若い心に深く刻まれたはずだ。
大軍も結局は人の集まりなのだ。求心力を失えば簡単に烏合(うごう)の衆と化す。反対に士気が十分に高ければ、寡(か)勢で多勢を打ち破ることも不可能ではない。だからこそ弱小勢力だった頃の信長は先頭に立って戦った。我が身を危険に晒すしか他に勝つ方法がなかったからだけれど、それでも生き延びることができたのは、信長が常に戦術を改良し続けたからだ。槍兵に三間半の長槍を持たせたのも、大量の鉄砲を調達したのも、鉄板で装甲した大船を建造したのも、そのすべてが戦に勝つ工夫だった。
この時期の信長の戦は、戦というより土木工事という方がふさわしい。信長が信濃で武田軍と対峙する河尻秀隆に宛てた天正十(1582)年二月二十八日付の手紙が残されている。信忠家臣団の筆頭であり、信忠率いる十万ともいわれる大軍の軍監的地位にあった秀隆に信長が厳命したのは、道の普請(ふしん)であり繫城(つなぎじろ)の構築だった。
繫城は城と城をつなぐ支城のことだ。信長が自ら率いる本軍が到着するまでに、準備万端整えて勝利を盤石なものとせよということなのだが、戦を有利に進めるための準備という範疇(はんちゅう)を明らかに超えている。
諸人の目に、そういう軍勢はどう映っただろう。つまり大挙して敵地に攻め入り、道や城までも築いてしまう軍勢は。秀隆宛ての書状を読むと、道と城の普請を命じた直後に、こういう信長の言葉が記述されている。
「大百姓以下は草のなびき時分を見計らう候条、その節用に立つべきかと存じ候」※
草のなびき時分を見計らうとは、攻守どちらの側につくかの時期を見極めるということだろう。すなわち信玄の父信虎の時代から三代にわたって武田家の恩顧を受けた土地の土豪のなかからも、こちらに味方する者が出てくるだろうと言っている。
信忠の軍勢が攻め込むと、土地の人々は先を争うように織田方への恭順の意を表す。勝頼の本拠である新府城内にいた武田一門も家老衆までもが、戦の手立てはいっさいなく、親や妻子を逃れさせるので手一杯だった。
「四郎勝頼旗本に人数一勢もこれなし」と『信長公記』は記している。勝頼の下には一隊の軍勢も集まらなかったというのだ。
音声で聞く! 5分で学べる歴史朗読
Takuji Ishikawa
文筆家。1961年茨城県生まれ。著書に『奇跡のリンゴ』(幻冬舎文庫)、『あいあい傘』(SDP)など著書多数。