織田信長は、日本の歴史上において極めて特異な人物だった。だから、信長と出会った多くの人が、その印象をさまざまな形で遺しており、その残滓(ざんし)は、四百年という長い時を経て現代にまで漂ってくる。信長を彼の同時代人がどう見ていたか。時の流れを遡り、断片的に伝えられる「生身の」信長の姿をつなぎ合わせ、信長とは何者だったかを再考する。
信長のコトバ:「大百姓以下は草のなびき時分を見計らう候条」
武田勝頼との最後の戦に臨んだ信長が、慎重のうえにも慎重を期したのは、戦というものの不可解さを彼がよく知っていたからでもある。戦場では何が起きるかわからない。
小勢が時に何倍もの大軍を打ち破る。万余(まんよ)の軍勢で怒濤のごとく押し寄せた今川義元は、信長のほとんど目の前で頸(くび)を落とされたのだ。大将を失った大軍の信じ難いほどの脆(もろ)さは彼の若い心に深く刻まれたはずだ。
大軍も結局は人の集まりなのだ。求心力を失えば簡単に烏合(うごう)の衆と化す。反対に士気が十分に高ければ、寡(か)勢で多勢を打ち破ることも不可能ではない。だからこそ弱小勢力だった頃の信長は先頭に立って戦った。我が身を危険に晒すしか他に勝つ方法がなかったからだけれど、それでも生き延びることができたのは、信長が常に戦術を改良し続けたからだ。槍兵に三間半の長槍を持たせたのも、大量の鉄砲を調達したのも、鉄板で装甲した大船を建造したのも、そのすべてが戦に勝つ工夫だった。
この時期の信長の戦は、戦というより土木工事という方がふさわしい。信長が信濃で武田軍と対峙する河尻秀隆に宛てた天正十(1582)年二月二十八日付の手紙が残されている。信忠家臣団の筆頭であり、信忠率いる十万ともいわれる大軍の軍監的地位にあった秀隆に信長が厳命したのは、道の普請(ふしん)であり繫城(つなぎじろ)の構築だった。
繫城は城と城をつなぐ支城のことだ。信長が自ら率いる本軍が到着するまでに、準備万端整えて勝利を盤石なものとせよということなのだが、戦を有利に進めるための準備という範疇(はんちゅう)を明らかに超えている。
諸人の目に、そういう軍勢はどう映っただろう。つまり大挙して敵地に攻め入り、道や城までも築いてしまう軍勢は。秀隆宛ての書状を読むと、道と城の普請を命じた直後に、こういう信長の言葉が記述されている。
「大百姓以下は草のなびき時分を見計らう候条、その節用に立つべきかと存じ候」※
草のなびき時分を見計らうとは、攻守どちらの側につくかの時期を見極めるということだろう。すなわち信玄の父信虎の時代から三代にわたって武田家の恩顧を受けた土地の土豪のなかからも、こちらに味方する者が出てくるだろうと言っている。
信忠の軍勢が攻め込むと、土地の人々は先を争うように織田方への恭順の意を表す。勝頼の本拠である新府城内にいた武田一門も家老衆までもが、戦の手立てはいっさいなく、親や妻子を逃れさせるので手一杯だった。
「四郎勝頼旗本に人数一勢もこれなし」と『信長公記』は記している。勝頼の下には一隊の軍勢も集まらなかったというのだ。
三月三日、勝頼は新府城に火を放ち、夫人や側室、伯母や妹など身分の高い夫人や、お付きの女房など二百名余を伴って退去する。最初は五百名ほどの武者が追従したが、途中で徐々に逃亡し、最後は四十一名しか残っていなかったという。
甲斐、信濃、駿河三ヵ国とその周辺の合わせて百二十万石の領地を支配した武田氏を、信長は最終的にはほとんど戦わずして滅ぼしたというわけだ。
それが信長にとっての事実上の最後の戦いであり、それは信長が工夫を重ねた戦の最終的な形だったともいえる。信長自身はこの時、一戦も交えていないが、だからこそ彼が何を目指したかがよく見える。武田氏の旧領を分割し、戦後処理を終えた信長は、四月二日に諏訪を発ち帰国の途につく。その帰国の旅が尋常ではなく豪華だった。その絢爛豪華さのなかに、信長が目指したものがあった。
※『織田信長文書の研究 下巻』(吉川弘文館刊/奥野高廣著)684ページより引用
Takuji Ishikawa
1961年茨城県生まれ。文筆家。不世出の天才の奮闘を描いた『奇跡のリンゴ』『天才シェフの絶対温度』『茶色のシマウマ、世界を変える』などの著作がある。織田信長という日本史上でも希有な人物を、ノンフィクションの手法でリアルに現代に蘇らせることを目論む。