日本の歴史において、誰もが知る織田信長。歴史に名を残す戦国武将のなかでも、信長は極めて特異な人物だった。交渉力、絶体絶命のピンチを乗り越えるアイデア力、咄嗟の判断力……。信長の奇想天外で機転の効いた行動は、日々無理難題を強いられるビジネスパーソンのヒントになるだろう。今回は、信長の生涯最後の正月に起こった、民衆の安土城見物についてのエピソードをご紹介! 作家・石川拓治さんによるゲーテの人気コラム「信長見聞録」を朗読という形で再発信する。
信長が安土城築城にこめた思い
天正四年一月中旬、近江の安土山で城の普請が始まる。この普請は翌月に終わり、信長は岐阜から引き移るのだが、それはほんの手始めだった。本格的な石垣の建設が始まったのは、この年の四月一日だった。
ただの建設ではない。ひとつの石を運び上げるのに数千人、なかには一万人を要する巨石もあったという。ピラミッドの建造にも匹敵する巨大土木工事を経て石垣が組まれ、その上にあの有名な地下一階地上六階の安土城天守(天主)閣などの建造物群が築かれることになる。
信長の建設は早い。通常なら一年二年という期間を要するような工事も、数ヵ月で終わらせるのが常だったが、この天守の完成までには三年の歳月を要している。工事の規模があまりに大きかったというだけでなく、建築物の内装の細工が贅を尽くし、精緻を極めたものだったからだ。信長が安土城天守に移ったのは天正七年五月十一日だが、安土城の主立った建築物の内部を大々的に披露したのは、天正十年のことだった。
この年の正月一日、近隣の大名小名や織田家一門はそれぞれ安土に滞在し、年頭の挨拶のために城に登った。大変な人数が押し寄せたため、山裾に積んだ石垣が崩れ多数の怪我人と死者が出るほどだったという。今年は安土城の見物ができるというので、夥しい数の年始客が集まったのだろう。
信長もそれは心得ていたようで、側近の堀秀政と長谷川秀一を通じて「今度は、大名小名によらず、御礼銭百文づつ、自身持参候へ」※ という通達が出されていた。「自身持参候へ」というのは、供の者に持たせず自分自身で百文を持参せよということだ。どういうことかと首を傾げた者も少なくなかったはずだ。
人々は天守閣下の白州でそれぞれ信長から声をかけられ、室内のすべてが金で装飾された天皇の御幸の間(天皇の行幸を予定してつくられた)まで見物を許されるのだが、その後で「台所口へ参れ」と促されて行くと、廐の入り口に、なんと信長本人が待ち構えている。
音声で聞く! 5分で学べる歴史朗読
Takuji Ishikawa
文筆家。1961年茨城県生まれ。著書に『奇跡のリンゴ』(幻冬舎文庫)、『あいあい傘』(SDP)など著書多数。