日本の歴史において、誰もが知る織田信長。歴史に名を残す戦国武将のなかでも、信長は極めて特異な人物だった。交渉力、絶体絶命のピンチを乗り越えるアイデア力、咄嗟の判断力……。信長の奇想天外で機転の効いた行動は、日々無理難題を強いられるビジネスパーソンのヒントになるだろう。今回は、信長が追放した戦友、佐久間信盛についてのエピソードをご紹介! 作家・石川拓治さんによるゲーテの人気コラム「信長見聞録」を朗読という形で再発信する。
失ってわかる友人の尊さ
佐久間右衛門信盛の評判は悪い。信長の折檻状(せっかんじょう)のせいだ。
天正八年八月、信長は自らの手で一通の書状を書き上げ信盛に送り、息子の信栄とともに高野山に追放する。これが有名な信長の折檻状で、信盛を譴責(けんせき)する言葉が書き連ねられている。
信長の自筆文書はほぼ残っていない。当時も珍しかったらしく、『信長公記』も信長の自筆だったことを強調している。怒りにまかせ自書したのだろう。信長に無能の烙印を押された信盛の歴史的評価は、すこぶる低い。けれど、この折檻状は別の読み方もできる。
信盛は信長の最も古い家来のひとりであり、筆頭家老の地位にあった。肩を並べられるのは柴田勝家くらいだが、その勝家も元は信長の弟・信行(信勝)の家老で、兄弟の戦になった時は信長の敵として槍を向けている。信盛は当時から信長の腹心であり続けた。
若い信長は町中で立ったまま瓜を喰らい、人の肩にぶら下がって歩いたというが、そのぶら下がった相手は信盛だったかもしれない。信盛は信長が「うつけ」と呼ばれた頃からの仲間なのだ。父・信秀という後ろ盾を失い、兄弟と敵対し、家臣からも見放された弱小の信長を、信盛は一度も裏切ることなく味方し続けた。おそらくふたりは馬が合ったのだ。
信盛には「退き佐久間」という渾名があった。兵を退く名手の意だ。戦では攻撃より退却が難しい。退き方を誤れば、追撃を受け味方の兵を大きく失いかねない。信盛は戦況や地形を見極め、味方の損害を出さずに兵を撤収するのが上手かった。
この種の仕事は賞賛を受けにくい。華々しい武功を上げる可能性は低く、上手くやって当然で失敗すれば批難される。損な役回りを上手にこなす信盛は戦の先頭で槍を振るうことを好む信長には、得難い部下だったはずだ。実際信盛は信長の主要な戦の大半に参戦し、地味だが重要な役割を果たしている。そんな信盛に、ほとんど身ぐるみ剥がされて追放されるようないかなる落ち度があったのか。
信長はこう書いている。
「信長代になり、三十年奉公を遂ぐるの内に、佐久間右衛門、比類なき働きと申し鳴らし候儀、一度もこれあるまじき事」
音声で聞く! 5分で学べる歴史朗読
Takuji Ishikawa
文筆家。1961年茨城県生まれ。著書に『奇跡のリンゴ』(幻冬舎文庫)、『あいあい傘』(SDP)など著書多数。