織田信長は、日本の歴史上において極めて特異な人物だった。だから、信長と出会った多くの人が、その印象をさまざまな形で遺しており、その残滓(ざんし)は、四百年という長い時を経て現代にまで漂ってくる。信長を彼の同時代人がどう見ていたか。時の流れを遡り、断片的に伝えられる「生身の」信長の姿をつなぎ合わせ、信長とは何者だったかを再考する。今回は2019年2月号~2021年2月号まで2年にわたって掲載した人気連載「信長見聞録 天下人の実像」第一章から第四章までのまとめを再掲。
第一章 織田信秀
青年期の信長が世間から「大たわけ」呼ばわりされたのは有名な話だ。放埒な身なりと酷い行儀ゆえとされているが、もっと大きな背景がある。
父の織田信秀が四十二歳の若さで歿っした時、信長は十九歳だった。この時代の基準では立派な大人だ。まして信長は吉法師と呼ばれた幼少時代から城と専属の家臣団を与えられ、次世代の主として育てられた。文句のつけようのない新当主だ。船出は順風満帆のはずだった。
しかし、現実は真逆だった。
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第二章 斎藤道三
敵の首を刈るのが手柄の時代の感覚でも、斎藤道三は危険人物だった。渾名は美濃の蝮。主人を追放して大名になったからだ。蝮の子は親の腹を食い破って生まれると信じられていた。
その道三が、富田の正徳寺に信長を誘ったのは、父信秀の死の翌年春のことだ。正徳寺は美濃と尾張の国境近くの一向宗の寺。富田は寺内町で、世俗の権力の及ばない中立地帯だ。トランプと金正恩の首脳会談が、双方の安全を保証するシンガポールで行われたのと同じ話だ。
道三の娘はその数年前に信長に嫁いでいた。典型的な政略結婚だが、ともかくふたりは舅と女婿の関係にある。会見の申し入れは一応筋が通っている。ただし、それは一般人の話だ。将棋の王将と王将が隣り合うことがないように、戦国大名同士が直接顔を合わせることなどまずなかった。暗殺を含め、何が起きても不思議はないのだ。
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第三章 一色村の左介
火起請(ひぎしょう)は神前で行う。被告は無実を誓い、焼いた鉄片を素手で受け取る。落とさずに運べれば無罪、取り落とせば有罪で極刑に処された。人々が素朴に神を信じていた古代には広く行われたある種の裁判だ。信長の時代にも、まだ存在したらしい。
『信長公記』に、その記述がある。鷹狩り帰りの信長が神社を通りかかると、人々が槍や弓を持ち出して騒いでいる。理由を質すと、左介という男が強盗で訴えられて火起請を行い、鉄片を取り落とした。有罪が決まったが、左介の仲間が不服を申し立て処刑を妨害、この騒ぎになったという。不服の詳細は書かれていない。
左介は、信長の乳母の息子、池田恒興の家来だ。信長と同じ女性の乳で育ったいわゆる乳兄弟だから、家中でも恒興は一目置かれていた。左介の仲間とはつまりその恒興の家来たちで、日頃から大きな顔をしていた。
第四章 長槍隊
父の信秀亡き後、信長は苦境に立たされる。若い信長は、父から受け継いだ家臣たちの信頼を得られなかったのだ。敵方への寝返り、一族内の裏切りや謀反が相次ぎ、尾張国内は紛争絶えない内乱状態に陥る。そうなれば戦国の世の常として他国からの侵略は必至で、後の桶狭間の戦いにつながるわけだけれど、なぜ信長はそれほどまでに家臣の信頼を得られなかったのか。
宣教師のルイス・フロイスが、答えになりそうな事実を書き残している。
「彼(信長)は部下の進言に左右されることはほとんどなく、全然ないと言ってもよいくらいで」
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Takuji Ishikawa
文筆家。1961年茨城県生まれ。著書に『奇跡のリンゴ』(幻冬舎文庫)、『あいあい傘』(SDP)など著書多数。