織田信長は、日本の歴史上において極めて特異な人物だった。だから、信長と出会った多くの人が、その印象をさまざまな形で遺しており、その残滓(ざんし)は、四百年という長い時を経て現代にまで漂ってくる。信長を彼の同時代人がどう見ていたか。時の流れを遡り、断片的に伝えられる「生身の」信長の姿をつなぎ合わせ、信長とは何者だったかを再考する。
信長のコトバ:「であるか」
敵の首を刈るのが手柄の時代の感覚でも、斎藤道三は危険人物だった。渾名は美濃の蝮。主人を追放して大名になったからだ。蝮の子は親の腹を食い破って生まれると信じられていた。
その道三が、富田の正徳寺に信長を誘ったのは、父信秀の死の翌年春のことだ。正徳寺は美濃と尾張の国境近くの一向宗の寺。富田は寺内町で、世俗の権力の及ばない中立地帯だ。トランプと金正恩の首脳会談が、双方の安全を保証するシンガポールで行われたのと同じ話だ。
道三の娘はその数年前に信長に嫁いでいた。典型的な政略結婚だが、ともかくふたりは舅と女婿の関係にある。会見の申し入れは一応筋が通っている。ただし、それは一般人の話だ。将棋の王将と王将が隣り合うことがないように、戦国大名同士が直接顔を合わせることなどまずなかった。暗殺を含め、何が起きても不思議はないのだ。
それを百も承知で、さらりと誘いをかけるのが道三の空恐ろしいところだ。魂胆があった。断れば、信長は臆病者だという評判が立つ。「たわけ」で臆病者なら、信長から離反する者はさらに増えるだろう。
普通に考えれば、それでも信長は断るはずだ。道三に会っても、得るものは何もない。美濃の蝮がどんな顔をしているかわかるくらいのものだ。
ところが、信長はあっさりとこの誘いを受ける。そこで道三は会見に罠を仕かける。肩衣や袴で華麗に正装させた古老数百名を、会見場の寺の縁先に座らせたのだ。
信長は昨年の父親の葬儀にさえ、破廉恥な浴衣姿で現れ、位牌に抹香を投げつけて帰ったという。舅である道三との会見の場にも、無法者のような風体で現れるに違いない。そんな信長を正装した何百人もの配下に嘲笑させ、恥を掻かせようという目論見だった。あるいは、信長の人物を見極めようとしたのかもしれない。人前で恥を掻かされるような場面で、人は往々にして人間性を露わにするものだからだ。
しかし、信長は舅を手玉に取る。会見場までは、腰に荒縄を巻き、肩を外した浴衣姿(『老人雑話』によると浴衣の背中には極彩色の男根まで描かれていたという)でやってきたが、寺に着くとすぐに髪を結い、堂々とした長袴と羽織の正装で会見に臨む。嘲笑するはずの当てが外れ、面目を失った道三が渋々姿を現しても、信長は縁先の柱を背にして座ったままだ。
双方の家臣団は、固唾を呑んでその様子を見守っていた。本来なら若輩の信長が、先に挨拶をするべきだろう。けれど、信長は素知らぬ顔をしている。見かねたひとりの家来が「こちらが山城殿(道三のこと)です」と紹介するにおよんで、ようやくひと言発する。
「であるか」※
それからふたりは尋常に挨拶をし、酒を酌み交わすのだが、道三は終始苦虫を噛みつぶしたような顔をしていたという――。
これが戦いくさなら、「であるか」は最後のとどめのようなものだろう。道三の罠を、信長は鮮やかに撥ね返した。それはその場の誰もが理解していた。だからこそ、舅であり年長者である道三が、二十歳の若僧の無礼な態度をとがめ立てできなかった。
勝負はついたのだ。
そう考えれば、血が流されることはなかったけれど、正徳寺での会見もふたりにとってはひとつの戦だった。
※『信長公記』(新人物往来社/太田牛一著、桑田忠親校注)31ページより引用
Takuji Ishikawa
文筆家。1961年茨城県生まれ。著書に『奇跡のリンゴ』(幻冬舎文庫)、『あいあい傘』(SDP)など著書多数。