織田信長は、日本の歴史上において極めて特異な人物だった。だから、信長と出会った多くの人が、その印象をさまざまな形で遺しており、その残滓(ざんし)は、四百年という長い時を経て現代にまで漂ってくる。信長を彼の同時代人がどう見ていたか。時の流れを遡り、断片的に伝えられる「生身の」信長の姿をつなぎ合わせ、信長とは何者だったかを再考する。
信長のコトバ:「何程にかねをあかめて、とらせたるぞ」
火起請(ひぎしょう)は神前で行う。被告は無実を誓い、焼いた鉄片を素手で受け取る。落とさずに運べれば無罪、取り落とせば有罪で極刑に処された。人々が素朴に神を信じていた古代には広く行われたある種の裁判だ。信長の時代にも、まだ存在したらしい。
『信長公記』に、その記述がある。鷹狩り帰りの信長が神社を通りかかると、人々が槍や弓を持ち出して騒いでいる。理由を質すと、左介という男が強盗で訴えられて火起請を行い、鉄片を取り落とした。有罪が決まったが、左介の仲間が不服を申し立て処刑を妨害、この騒ぎになったという。不服の詳細は書かれていない。
左介は、信長の乳母の息子、池田恒興の家来だ。信長と同じ女性の乳で育ったいわゆる乳兄弟だから、家中でも恒興は一目置かれていた。左介の仲間とはつまりその恒興の家来たちで、日頃から大きな顔をしていた。
話を聞くうちに、信長の機嫌が悪くなる。左介はともかく火起請を受けた。成功したら無実を主張したはずだ。失敗してから不平を言うのは卑怯だ。信長はそういう卑怯を嫌う。そのまま左介を処断しても不思議はなかったが、そうはせずに、信長はあることを問う。
「何程にかねをあかめて、とらせたるぞ。元のごとく焼き候を御覧候はん」※
鉄をどれくらい赤くしたのか、焼いて私に見せよと言うのだ。いったい何をするつもりか。使われた鉄片は横?、すなわち斧だった。分厚い刃が焼かれ、やがて赤熱し始める。見守る人々の顔は、高温の炎に照らされていたはずだ。信長が左介に火起請のやり直しをさせるつもりだと人々は思ったに違いない。
けれど、信長の言葉は予想外だった。自分がその焼けた斧を受け取る、と言うのだ。
この言葉で、不服の内容は推測できる。火起請の信憑性に難癖をつけたのだ。
火起請は江戸時代にほぼ廃れている。神が素朴に信じられた時代は過ぎ去ろうとしていた。大方彼らは、神の加護があろうと赤くなるまで焼いた鉄を素手で持つことなど、誰にもできないとでも言い慕ったのだろう。
火起請は信頼に足るか否か、人々は言い争っていたのだ。
こういうときの信長はきわめて冷静だ。議論は無駄だ。実際に試せばわかるのだ。ならば自分が試そうというのが、いかにもこの人らしい。誰がやるより説得力があったのも確かだけれど、それよりも信長は自分で試してみたかったのだと思う。
自分が火起請を首尾良くやり遂げたら、左介を成敗する。信長はそう宣言すると、赤熱した斧を受け取り、三歩歩いて神棚の上に置く。『信長公記』は事件の最後をこう結んでいる。
「是を見申したるかと、上意候いて、左介を誅戮させられ、すさましき様体なり」
これ見たかを言って信長は左介を誅戮する。誅戮とは法に基いて罪人を殺すこと。それが「すさまじい有様だった」という結びが、たわけと呼ばれた信長に人々が信服するようになった経緯を物語る。火起請は、成功しても酷い火傷を負うのが常だった。信長の掌も焼けたはずだ。その気迫に人々は打たれたのだろう。けれど、それだけではない。焼けた鉄を自らの掌で受け火起請の信頼性を確かめた上で、信長は左介を「正しく」処罰した。激しい気性に目を奪われるが、彼の行為にはいつもそういう道理が通っていた。
※『信長公記』(新人物来社/太田牛一著、桑田忠親校注)65ページより引用
Takuji Ishikawa
文筆家。1961年茨城県生まれ。著書に『奇跡のリンゴ』(幻冬舎文庫)、『あいあい傘』(SDP)など著書多数。