占領下の日本からパリに渡り、絵画を学び、幸運なデビューも果たす。同じく画家の夫が世界的な名声を高めていく中で、同じアトリエで制作するつらさ、女性が画家として生きる難しさ。画業を中断、時を経て再開。彼女のたくましさと気高さが教えてくれるのは、それは「人生って素晴らしい」ということ。連載「アートというお買い物」とは……
生きた。描いた。愛した。画家、毛利眞美の美しき生涯
1959年に撮影された1枚のカラー写真。場所はフランス、パリの15区ティフェヌ通り14番。写っているのは画家・堂本尚郎と、妻で同じく画家の毛利眞美である。堂本の横の大きな絵は《集中する力》(1958年 油彩・キャンバス 150.0×250.0cm)。現在の所蔵者は石橋財団アーティゾン美術館。毛利眞美の傍の赤い絵は《無題》(1957年 油彩・キャンバス 116.0×73.0cm)である。余談だがこのアトリエは夫妻が後年、日本に帰国後も親交するアメリカ人画家、サム・フランシスから譲られたものだそうだ。
撮影者は阿部徹雄で著書『現代の造形―ヨーロッパの芸術家たち』(毎日新聞社刊)のための取材だった。この本には他にマリーノ・マリーニ、荻須高徳、ロベール・ドアノー、オシップ・ザッキン、ピエール・スーラージュらが登場している。
有名画家、堂本尚郎の妻で画家の毛利眞美の生涯を綴った伝記『ふたりの画家、ひとつの家 毛利眞美の生涯』が2023年5月に出版された。これまで、あまり知られることのなかった一人の女性の画家の人生を読む。その美しい生き方に惹かれる。
1926年、毛利眞美は戦国武将の毛利元就の末裔の一族に生まれた。6人姉妹の一番下、さらにその下に末っ子の弟がいる。1950年、占領下の日本でGHQ発行のパスポートを持ち、戦後初の女性留学生としてフランス船籍ラ・マルセイエーズ号で渡仏。このとき同じ船で作家の遠藤周作もフランスに留学している。
眞美はキュビスムの画家、アンドレ・ロートの画塾に通って多くを学んだ。1951年、イタリアへの一人旅。ローマ、アッシジ、フィレンツェ、パドヴァ、ミラノを回る。その後、スイスを経由してパリに戻った。パドヴァではジョットが壁画を手がけたスクロヴェーニ礼拝堂を訪れた。
この旅でイタリアに向かう途中、知人のつてでアンリ・マティスに会うことができた。マティスは当時、まだ建設中だったヴァンスのロザリオ礼拝堂を見ることを勧め、手配してくれたのだった。
1952年、ラ・マルセイエーズ号で帰国。翌53年1月に銀座の資生堂ギャラリーで個展を開催し、油彩15点を展示した。その会場をのちに夫となる堂本尚郎が訪れ、二人は出会った。尚郎は日本画家、堂本印象の甥である。1955年、尚郎がフランス政府の私費留学生試験に合格し、渡仏。翌'56年、眞美もフランスへ。10月、フランス大使公邸にて結婚式を挙げた。藤田嗣治が参列した写真が残っている。
やがて、夫の尚郎は国際的な名声を築き上げていき、眞美は文化人、芸術家が集うサロンの中心的存在になっていく。女性が画家として活動していくことにさまざまな困難が待ち受けた時代、画家としての活動を中断せざるを得なくなっていく。本書の題名の『ふたりの画家、ひとつの家』の意味が重く感じられる。
1979年のムートン・ロートシルト
ところで、『ゲーテ』の読者にとってはこちらの話題の方が身近であろうか。
フランス、ボルドーの第一級格付けシャトーの一つであるシャトー・ムートン・ロートシルトは毎年、ラベルには著名画家の作品を使っている。これまで、ダリ、ミロ、シャガール、ピカソ、ウォーホルらの絵がボトルを飾ってきた。
堂本尚郎は1979年、日本人として初めて、白羽の矢が立ったのだった。ちなみにもう一人の日本人は、1991年のクロソフスキー・ド・ローラ・セツコ(日本名:出田節子)である。
そのときのエピソードも本書に載っている。このワインの格の高さもそうだが、著名画家に絵を提供してもらうという伝統も堂本夫妻は知らなかった。ワインラベルという小さなもの、しかも報酬は何ケースかのワインだと聞いて、先方からのリクエストをいったん断ってしまった。あとでフランス人の友人にその話をしたところ、その友人の説明とアドバイスに従って、引き受けることにしたのだった。
ラベルにするための絵はインクとアクリル絵具で描かれ、サイズは25.5×54.5cmだった。洗練された作品がこの誇らしいワインにふさわしい。シャトー・ムートン・ロートシルトの原画などを展示する展覧会というものが1981年、カナダから始まり、ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館やサンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館など巡回したのだが、日本でも1982年、西武美術館、2008年、森アーツセンターで開催されている。その公式図録『ムートン・ロートシルト 芸術とラベル』(発行:サザビーズ)によると、堂本は3点の絵を提供し、その1点が選ばれたようだ。
さて、話を『ふたりの画家』に戻す。本書の出版を記念して、東京・京橋の南天子画廊では2023年5月22日から6月17日まで「毛利眞美 出版記念展」が開催された。展示された作品の中には、あの、1959年、ティフェヌ通りのアトリエで眞美の横にあった赤い絵が展示されていた。
そして、このタイミングでという偶然なのだが、あの尚郎が描いていた大作が同じく東京・京橋のアーティゾン美術館で開催中の「ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 セザンヌ、フォーヴィスム、キュビスムから現代へ」に展示されている。
それでもきっと人生はいいもの
毛利眞美は1997年、画家としての長き中断を解消し、銀座の村松画廊で個展を開催する。いずれの絵も裸婦を描いたもので、あるものは力強く躍動し、あるいは身を投げ出し、あるいはダンスをしている。
長い時間が流れた。才能やチャンスに恵まれた一人の女性画学生が留学、デビュー、結婚、出産をする。女性ゆえの困難に遭い、若い頃に描いていた人生どおりではなかったかもしれなかった。しかし、どんな局面にあっても、気高さや優しさを決して失うことのなかった誇り高い彼女の人生が、このような1冊の本にまとめられたのは本当に素敵なことである。
そして、著者の高見澤たか子による「あとがき」が終わったさらにそのあとに綴られる、眞美の娘で母と同じく画家で、本書の編者である堂本右美の10数ページに渡る「母・眞美の生き方——終章にかえて」がある。そうか、これを読むためにそれまでの300ページがあったのかと思わされた。(そのためにも絶対にここから読んではいけない)。そして、毛利眞美という人の魅力があらためて違う角度から放たれる。まったくありきたりの言い方になってしまうのだけれど、人生ってなんていいものなのだろうと思わせてくれる本なのであった。
Yoshio Suzuki
編集者/美術ジャーナリスト。雑誌、書籍、ウェブへの美術関連記事の執筆や編集、展覧会の企画や広報を手がける。また、美術を軸にした企業戦略のコンサルティングなども。前職はマガジンハウスにて、ポパイ、アンアン、リラックス編集部勤務ののち、ブルータス副編集長を10年間務めた。国内外、多くの美術館を取材。アーティストインタビュー多数。明治学院大学、愛知県立芸術大学非常勤講師。東京都庭園美術館外部評価委員。
■連載「アートというお買い物」とは……
美術ジャーナリスト・鈴木芳雄が”買う”という視点でアートに切り込む連載。話題のオークション、お宝の美術品、気鋭のアーティストインタビューなど、アートの購入を考える人もそうでない人も知っておいて損なしのコンテンツをお届け。