ビジネスは闘いだ。百戦錬磨の男たちは何を心の拠り所としてきたのだろうか――。9人の勝負師のパワーアイテムから、仕事との向き合い方を知る。今回は、御所人形師の伊東庄五郎氏に話を聞いた。【特集 勝ち運アイテム】
病除けの願いを込めた守り神は心の支えであり、己を戒める指針
「有職御人形司(ゆうそくおんにんぎょうし) 伊東久重(いとうひさしげ)」家のルーツは、江戸時代初期に京都・四条烏丸で薬種商を営んだ「桝屋庄五郎」だという。手先が器用だった初代が、人形師として身を立て、御人形細工師を名乗ったのがはじまりだ。明和4(1767)年、3代庄五郎が、後桜町天皇より宮廷出入りの人形師として「有職御人形司 伊東久重」の名を賜り、今日にいたる。
透き通るような白い肌や稚児のような愛くるしい姿を持つ御所人形は、代々の宮廷や公家などで愛されてきた。その成り立ちや品格から、人形のなかでも、最も格式の高いものといわれ、初代庄五郎以来、およそ300年にわたり、皇室の慶事などに用いられている。
伊東庄五郎氏は、久重13世嗣(せいし)。高校時代から父である12世久重氏を手伝って人形づくりの基礎を学び、大学卒業後、本格的に御所人形師の道に入った。34歳で初めて自身の作品を発表するまで、ひたすら父を見習い、研鑽を重ねる日々だったという。
「具体的なことは何ひとつ、父からは教えてもらえないのです。父の仕事を見て木を削り、その日できたものを置いておくと、翌朝には父が手直ししている。ここがいけない、となぜ口で伝えてくれないのだろうと苦い思いもしましたが、実際に父が直したことで、格段によくなっている。見習うとはこういうことなのかと思いました」
初作品発表から14年目に伊東庄五郎を襲名。個展を開いた。
「父を目標にしているから、行きつくことはありません。追いつく間もなく、父がどんどん先を行くからです」
100年後にさすがと尊ばれるものを残したい
そんな伊東氏の心の支えであり、技術的な指針になっているのが、初代がつくった人形、草刈童子だ。享保年間(1716〜1736年)に巷で流行病が広まった時、初代庄五郎が病除けの願いを込めて、子供が薬草を刈る姿を人形にうつし、店先に飾った。その甲斐あってか流行病(はやりやまい)は治まり、以降、伊東家の守り神として玄関に飾られてきた。今でこそ自身のサロンに展示されているが、庄五郎氏が幼い頃は玄関先に置かれ、近所の子供にも親しまれていたという。
「先祖の作品、それも世のためを思ってつくったもの。その意思や心持ちを敬うことはもちろんです。けれど、それだけではありません。うちのように代々続く家は、100年後、200年後も作品を子孫が修復します。その時、『さすが丁寧につくられた渾身の作だ』と尊ばれるものを残したい。何というか、プライドとでもいうのでしょうか。草刈童子を見ると、そんな思いに駆られます」
草刈童子を見ると、同じ仕事をするものとして、細部までその技を観察してしまうと言う。それは、妥協や手抜きのようなことがあってはならないと己を戒める機会だとも。日々の制作のなかで、心がけるのは、安定感、安心感、品格のある作品をつくること。作品には、つくる人の人柄がどうしても出ると言う。
美大に通う息子には、「14世を継いでほしい」とは言わないが、この「伊東家に伝わるものづくりの精神だけは、どんな仕事に就こうが忘れずにいてほしい」と話している。
もうひとつ、伊東氏が今後のモチベーションにしているものがある。それは、寛政2(1790)年に、光格天皇より拝領した「十六葉八重表菊(じゅうろくようやえおもてぎく)紋印」。「入神の作に捺(お)すように」というお言葉とともに賜ったそうだ。
「父は、皇室にお納めするものに捺すと決めているようです。この菊紋印にふさわしい作品をつくることが今の目標です」
過去の作品を見て技や品格を知り、拝領した印を未来への力とする。伊東氏のエネルギーの源は、伊東家の歴史のなかにこそあるのかもしれない。
POWER ITEM 1|初代がつくった草刈童子
POWER ITEM 2|伊東家に伝わる作品と紋印
SHOGORO ITO Steps in History
34歳|「和光」にて初作品を発表。4年後の2009年には、佐川美術館で開催された「宮廷の雅 伊東久重 御所人形の世界」に特別出品
39歳|初個展となる「伊東建一 御所人形展」を開催
48歳|久重十三世嗣として後嗣名「庄五郎」を襲名。髙島屋大阪店にて「御所人形師 伊東庄五郎展」を開催
この記事はGOETHE 2025年2月号「総力特集:仕事を極めたトップランナーたちの勝ち運アイテム」に掲載。▶︎▶︎ 購入はこちら