戦後初の三冠王で、プロ野球4球団で指揮を執り、選手・監督として65年以上もプロ野球の世界で勝負してきた名将・野村克也監督。没後3年を経ても、野村語録に関する書籍は人気を誇る。それは彼の言葉に普遍性があるからだ。改めて野村監督の言葉を振り返り、一考のきっかけとしていただきたい。連載「ノムラの言霊」27回目。
40歳を超えてもユニフォームを着続ける中島宏之
2023年10月のドラフト会議において、12球団計72人の選手が指名された。1年間に東大に入学できるのは約3,000人。プロ野球のユニフォームを着られるのは毎年約70人。そう考えると、プロ野球選手は「野球の天才」なのだ。
一方、それと約同数の選手が毎年自由契約や戦力外通告を受けている。「老い」は誰にも公平に訪れるものだ。野球技術の進歩の限界もある。1球団の支配下選手枠は70人。「6人を指名する」ということは、「6人にユニフォームを脱がせる」ということなのである。
子供のころから毎日プレーし続けた野球のユニフォームを脱いで、バッテリー18.44m間で投打の真剣勝負ができなくなることに関しては、誰もが寂しい思いを抱く。
実績を残せなくても、ボロボロになるまでプレーし続けるのか。実績を残した選手は、華やかなイメージを残したまま、惜しまれてユニフォームを脱ぐのか。ボロボロの姿をファンに見せないのも、スター選手の1つの責務である。
2023年、実績を残している選手のなかで去就が注目されたのは、奇しくも巨人の2人。松田宣浩(ソフトバンク→巨人)と、中島宏之(西武→メジャー傘下→オリックス→巨人)だった。
2人とも通算2000安打を目指した。通算2000安打か否かは、引退後の印象で雲泥の差がある。
松田は現役18年40歳、通算1832安打でユニフォームを脱ぐことになった。松田は「40歳まで現役を続けるという目標が達成できた」と引退試合で心境を語った。
中島は現役23年41歳、通算1928安打。新たに中日のユニフォームに袖を通す。来季、シーズン143試合の半分で安打を打てば72安打で、通算2000安打に達する。ちなみに、これまでの「シーズン最多代打安打」は2007年真中満(ヤクルト)の31安打だ。
ちなみに現役16年を終えた34歳の中田翔(巨人)は通算1523安打で、これまた打線の弱い中日に移籍することになった。年齢的にも引退するにはまだ早いだろう。
生涯一捕手
現在こそトレーニング法、医療、栄養学の発達で40歳を超えても現役を続ける選手が増えたが、ひと昔前は35歳を超えるころから「引退」の2文字が選手の頭をよぎり始めていた。
野村克也は1977年オフ、捕手兼任監督を務めていた南海(現・ソフトバンク)を退団することになった。師と仰いだジャーナリストの草柳大蔵氏に差し迫った胸中を吐露した。
「42歳です。このまま引退すべきなのでしょうか」
「フランスのフォール首相は、74~75歳でロシア語を学び始めました。生きているうちは何事も勉強です。禅の『生涯一書生』という言葉を野村さんに送りましょう」
それをきっかけに、野村の代名詞にもなった「生涯一捕手」という言葉が生まれた。野村は監督という地位から外れ、一生涯一人の捕手であることを根底に、歩んでいく決意をした。
野村は南海退団後、選手としてロッテで1年、西武で2年、1980年45歳まで現役でユニフォームを着続けた。
「1980年のある試合、根本陸夫監督に一死満塁でプロ初の代打を送られたことが、引退を決意するきっかけになった」
野村は通算113犠飛の日本記録保持者である。犠牲フライならいつでも打てる自信があった。
「私は45歳で引退したが、原因は内角打ちが苦しくなってきたこと。体が回転するスピードが鈍ってきた。内角打ちが苦しくなって、内角ばかりに意識が行くと、外寄りの打てる球まで打てなくなってしまう」
野球を辞めてからの「第二の人生」のほうが遥かに長い
野村は現役引退後、評論家時代の9年間、草柳の助言に従った。
「野村さん、本を読みなさい」
「野村さん、講演の仕事は、野球にまつわることだけにしなさい」
「ときには無為に感じられても、あなたの努力を、見ている人は見ていますよ」
野村は片っ端から本を読んだ。野球も一から勉強し直した。当時はプロとアマの接触を禁じる「プロ・アマ規定」が厳しかった。息子・克則に直接指導ができないことを考えての「遺言」が、「野村ノート」の原型である。
講演会の内容も、野球関連以外のことに手を広げないように注意を払った。「野球における技術の学び方、組織の運営管理、人材育成を、一般社会にあてはめてほしい」というスタンスだった。
1989年、ヤクルト球団から声がかかって、監督に就任した。見ている人は、見ていた。以降、阪神、楽天と74歳まで監督としてプロ野球のユニフォームを着ることになる。
野村はミーティングで繰り返し「人間とは何か。何のために野球をやるのか。引退後の人生のほうが長いんだ。社会における最低限のマナーである挨拶と時間厳守を守りなさい」と伝えた。
人生というキャリアに、アスリートとしてのキャリアを加えた二重性なのだと説いた。つまり「デュアルキャリア」である。
結果が出ない選手には、「これまで同じことをやってきて結果が変わらないのだから、まず違うことをやってみなさい」と説いた。「野村再生工場」とは、すなわち野球における「セカンドキャリア」なのである。
1球団にコーチは約20人。コーチの入れ替わりは毎年2、3人程度のひと握りだ。いわば、プロ野球のコーチになるのは、プロ野球選手になるより難しい。
しかし、現在は独立リーグや高校野球のコーチなど、指導者の枠は格段に広がった。もちろん他業界においても、野球で培った競争力や協調性などを活かせる。
「個性の大切さ」を教わった長嶋一茂(ヤクルト、巨人)は知名度と話術を活かしてタレントとして成功している。「自分の主張に対する根拠の大切さ」を教わった西谷尚徳(楽天)はそれを講義で教える大学教員になった。
現役ユニフォームを脱いだ選手には、野球力を活かして「第二の人生」を頑張ってほしい。
まとめ
プロ野球選手は、言わば「野球の天才」だ。しかし、幼いころから着続けた野球のユニフォームを脱ぐときは訪れる。第二の人生のほうが長い。野球で培った競争力、協調性をセカンドキャリアで活かしてほしい。
著者:中街秀正/Hidemasa Nakamachi
大学院にてスポーツクラブ・マネジメント(スポーツ組織の管理運営、選手のセカンドキャリアなど)を学ぶ。またプロ野球記者として現場取材歴30年。野村克也氏の書籍10冊以上の企画・取材に携わる。