戦後初の三冠王で、プロ野球4球団で指揮を執り、選手・監督として65年以上もプロ野球の世界で勝負してきた名将・野村克也監督。没後3年を経ても、野村語録に関する書籍は人気を誇る。それは彼の言葉に普遍性があるからだ。改めて野村監督の言葉を振り返り、一考のきっかけとしていただきたい。連載「ノムラの言霊」13回目。
名捕手あるところに覇権あり
「名捕手あるところに覇権あり」
そう球界で言われて久しい。
現在首位を走る阪神の正捕手はゴールデングラブ賞を3度受賞している梅野隆太郎、パ・リーグの首位オリックスの正捕手は3度のベストナインに輝く森友哉だ。
最近のプロ野球において、レギュラー捕手に休養を与える意味も含めて、1週間6連戦ずっとマスクをかぶり続ける捕手は少なくなった。
梅野は2023年8月13日の死球左手首骨折というアクシデントもあって、坂本誠志郎がマスクをかぶる。森にしても若月健矢との併用だ。
最近は本職の捕手ではなく、違うポジション、役割で出場する選手も多い。
捕手登録の頓宮裕真(オリックス)は一塁を守って、パ・リーグの首位打者を独走するなど大活躍だ。内山壮真(ヤクルト)は類まれな打撃を生かして外野手で出場することもあるし、郡拓也(日本ハム)や谷川原健太(ソフトバンク)は内外野を守れる。
野球は日々進化する。先述のごとく、捕手が1シーズン、マスクをかぶり続けることは減った。しかし、捕手が優勝の行方を左右する大事なポジションであることに変わりない。
「一流の個性を使いこなす」か「発展途上を育成するか」
投手が投げなければ試合は始まらない。だが、その前に捕手がサインを出さなければ投手は投げられない。いわば、捕手は「監督の分身」であり、「試合中の監督」なのである。
セ・リーグで8年連続ベストナインに輝くなど巨人V9時代を支えた捕手に森昌彦(祇晶)がいる。野村より1歳下だ。
南海(現・ソフトバンク)と巨人が日本シリーズで対決した年(1961、1965、1966、1973年)を除き、「パ・リーグ打者の情報を入手しろ」という巨人の監督・川上哲治の命を受け、日本シリーズ前、森は野村のもとに派遣されてきた。
「サイン1つがチームの勝敗を左右する。こんなに大事なポジションなのに、捕手の評価が低いよな。捕手の大切さを2人で知らしめよう」
それから、ゆっくりとだが、着実に捕手の重要さは認知されていく。
1973年、野村は「捕手兼任監督」初優勝の美酒に酔った。
巨人からトレードされた山内新一が、野村のリード(投球の組み立て)により0勝からいきなり20勝と大飛躍。巨人からもう1人トレードされてきた、松原(福士)明夫も0勝から7勝。東映(現・日本ハム)で0勝だった江本孟紀も12勝をあげ、計39勝を上積みしたのである。
優勝に貢献した山内は新聞記者に囲まれた。
「セ・リーグの名捕手・森とパ・リーグの名捕手・野村のリードの違いは?」
「森さんは一流投手をリードするのが上手い。野村さんは僕のような二流投手をリードするのが上手い」
同じ捕手でも、森と野村でリードの手法は違った。
森は巨人で藤田元司、堀本律雄、堀内恒夫、高橋一三ら、最多勝投手を「個性を使いこなす」リードだった。一方の野村は、発展途上投手の「長所を引き出して育成する」リードだった。
それは監督になっても現れる。
森は西武のような大人の選手が集結したチームでは手腕を発揮した。9年間で実に8度のリーグ優勝である。だが、再建を託された横浜ベイスターズを率いた2年間は2001年3位、2002年は最下位に沈んだ。
野村は発展途上だったヤクルト選手を育成し、9年間で4度のリーグ優勝。さらに「自由契約選手の寄せ集め集団」と揶揄された「新生」楽天を最下位から2位に引き上げた。
同じ捕手でも、投手のリード、チームのマネジメントは違うのである。
捕手は監督の分身であり、代理監督である
1992年と1993年の日本シリーズ。森と野村は、監督として相まみえた。
チームの基盤を作るとき、監督の分身である捕手育成が手っ取り早い。
伊東勤(西武)と古田敦也(ヤクルト)。お互いの愛弟子が名捕手となっており、森と野村と「分身対決」「代理戦争」と喧伝された頭脳戦の日本シリーズとなった。
1992年は西武の4勝3敗、1993年はヤクルトの4勝3敗だった。
野村はゴールデングラブ賞に10度輝いた古田敦也(ヤクルト)、同2度の矢野燿大(阪神ほか)、嶋基宏(楽天ほか)を自らの手で育成した。古田を中心としたヤクルトはもちろん、その後、矢野の阪神、嶋の楽天も優勝を遂げた。
森は横浜時代、谷繁元信とのコミュニケーションが上手くいかなかったようで、谷繁は2002年にFAで中日移籍してしまった。2004年に監督に就任した落合博満にとって、谷繁が中日に在籍したことは幸運であった。落合・中日は谷繁を中心に8年間で4度のリーグ優勝という「黄金時代」を作り上げたのである。
名捕手として活躍し、野村と同様に捕手兼任監督となった古田は2006年3位(負け越し)、2007年最下位。同じく捕手兼任監督になった谷繁は2014年4位、2015年5位、2016年最下位に沈んだ。
現代のプロ野球は複雑化して、野村が1970〜1977年に務めた「捕手兼任監督」は難しい。特に攻撃面において、代理監督、監督の分身たる野手出身の優秀なヘッドコーチが必要だったかもしれない。
まとめ
チームの基盤を作るとき、監督の分身であり代理である捕手育成が手っ取り早い。ただ、チーム状況を考えて、「一流の個性を使いこなす」のか「長所を引き出して成長させる」のかを選択しなければならない。
著者:中街秀正/Hidemasa Nakamachi
大学院にてスポーツクラブ・マネジメント(スポーツ組織の管理運営、選手のセカンドキャリアなど)を学ぶ。またプロ野球記者として現場取材歴30年。野村克也氏の書籍10冊以上の企画・取材に携わる。