かつて夢見た暮らしをかなえた仕事人たちの家は、浪漫に溢れている。その家づくりのスケール感はもはや、大人の壮大な遊びなのだ。今回紹介するのは、南麻布に建つ、芸術家・S氏の邸宅。【特集 浪漫のある家】
自身の作品と対峙するための完璧な美空間
南麻布の閑静な住宅地に白亜の邸宅が建つ。間口は決して広くはない。だが一歩中へ入ると、美術館と見紛うほどの圧倒的な空間の広がりに驚かされる。
設計を手がけたのは2014年に“建築分野のノーベル賞”といわれるプリツカー賞を受賞するなど、国際的に活躍する建築家の坂 茂氏。
現在のオーナーで、邸宅に暮らす美術家S氏は’19年に邸宅を購入。徹底的に、こだわりのリノベーションを行った。
「建物には前のオーナーが手を加えた箇所がたくさんありました。家族構成に合わせて、暮らしやすいように増改築するのは決して悪いことではありません。ただ、私が受け継ぐことになって、まずは坂氏が建てた当時の姿の印象に戻したかった。一度、原型に近い状態に戻し、私の好きな空間にするため、壁・床などを根本からつくり直しました。キッチンフードのあり方などに少々疑問があったため、坂氏の建築設計事務所に協力を仰ぎ、担当者と話し合った結果、意匠としてもこの空間になじめる吸引力の強い大型のシンプルなキッチンフードにすることに。排気が以前の5〜6倍に改善され、臭気がリビングに届きにくくなったことは大きな収穫でした」
前のオーナーがスペースを確保するためにつくったリビングの中二階の廊下も階段もすべて撤去し、徐々に原型の印象が蘇ってきた。3つのバスルームはすべて原型の形を復刻。特に細部にこだわったのは床だ。できるだけ一面に見せるため、古い石と新しい石を焼いたり脱色したり、目地には彩色を施したという。それにより床面が一体化され、それぞれの部屋に続く動線がシンプルに見える。そして仕上がった家は、坂氏の建築時の特徴がより強く現れる結果に。
「坂氏のこの建物の魅力は、直線と美しいRのラインを描く優美な曲線の組み合わせだと思う。無駄な要素を排除し、原型に近づけた結果、彼の個性がはっきりと浮かび上がりました。何かをするわけではなく、ただそこに座って美しさを感じていたくなる。私が望む、この家の形に仕上がりました」
究極のクオリティを目指してつくり上げた完璧な空間。だからこそ家具もこだわり抜いた。
「坂氏の建築は意外にクセが強い。部屋が家具を選ぶんですよ。イタリア製のモダンアンティーク調か、エルメスのオーダーメイドかで悩み、2パターン購入しました。アンティーク調はまったく合わず、すぐに売却。一方、エルメスはしっくりとなじんだ。重厚さと軽やかさを併せ持ち、曲線が美しいエルメスの家具。この家のデザインと連続する美しいRを描きだしました」
そして、邸宅内の随所に飾られたアートの数々。ヴィア・セルミンの波のペインティング、ロバート・メープルソープのセルフポートレイトのプラチナプリント、アグネス・マーティンのペインティングなどの現代アート作品が次々と現れる。
「美しい空間には、それに寄り添うアートを飾ることで、両者のバランスが保たれるのだと私は思っています。地下の広い部屋には、私自身の作品を飾っています。この空間で、私の仕事がどう見えるのかを確認するためです」
この地下の広々とした部屋が、S氏一番のお気に入りの場所。ジョージ・ナカシマのオリジナルアンティークチェアに座り、時に、夜更けまで自分自身、そして自身の作品と対峙する。
「独身の頃、アントニン・レーモンドが設計した青山のデンマークハウスの5Bに住んでいました。無駄のない空間デザインがシンプルで気持ちよかったんですよ。その思い出を、いつの日か取り戻したいなと思っていたんです。今回、時間と手間をかけてスペシャルリペアを施し、かなり苦労したので、これからは楽しみますよ」
DATA
所在地:東京都南麻布
敷地面積:292平米
延床面積:465平米
設計者:坂茂建築設計
構造:地上階・鉄骨造、地下
階・鉄筋コンクリート造