どんなスーパースターでも最初からそうだったわけではない。誰にでも雌伏の時期は存在しており、一つの試合やプレーがきっかけとなって才能が花開くというのもスポーツの世界ではよくあることである。そんな選手にとって大きなターニングポイントとなった瞬間にスポットを当てながら、スターとなる前夜とともに紹介していきたいと思う。連載【スターたちの夜明け前】
佐野日大の1年生時に特に際立っていたのフォームの良さ
昨年は大谷翔平(エンゼルス)の大活躍に沸いたメジャーリーグだが、日本人選手で見事なデビューを飾ったのが澤村拓一(レッドソックス)だ。開幕から中継ぎの一角に定着すると、55試合に登板して5勝、10ホールドをマーク。10月3日(日本時間4日)のナショナルズ戦では2番手としてワンアウト満塁のピンチから登板して無失点と好投し、チームのプレーオフ進出にも大きく貢献している。150キロ台後半のストレートと、150キロを超えるスプリットはメジャーでも十分通用するボールと言えるだろう。
そんな澤村だが、高校時代は決して全国的に有名だった投手ではない。しかし投手としての高いポテンシャルを秘めていたことは間違いないだろう。初めてそのピッチングを見たのは2004年9月23日に行われた高校野球秋季栃木県大会、佐野日大と国学院栃木の試合だ。当時澤村の存在を知っていたわけではなく、県内の強豪同士の対決だから足を運んだという日だった。
佐野日大の1年生だった澤村は背番号10をつけてベンチ入りしていたが、2回途中からマウンドに上がるとそのピッチングに目が釘付けになったことをよく覚えている。特に際立っていたのがフォームの良さで、当時のノートにも「身のこなしが軽く、流れがスムーズで流麗なフォーム」、「力みがなく肘を柔らかく使え、球持ちが長い」、「腕の振りが体から近く、縦に触れるため左右のコントロールが安定し、シュート回転することもない」などと書かれている。
しかしこの記述を見て「おや?」と感じたファンも多いのではないだろうか。現在の澤村は躍動感こそあるものの、先述したような特徴に当てはまる部分は確かに少ない。ノートの11行目に「イメージは涌井(秀章・現楽天)と重なる」と書かれていることがその何よりの証拠と言えるだろう。ちなみにこの時の最速は133キロと高校1年秋にしてはまずまずだが、決して突出した数字ではない。それでいながらこれだけ多くのメモが残っているというところに、澤村のポテンシャルの高さがよく表れている。
ただこの後の澤村は順調に投手としてのキャリアを重ねていったわけではない。3年春に見た時には明らかに上半身の力が強いフォームになり、完全にバランスを崩していた。高校生活最後の夏は結局背番号9を背負い、マウンドに立つことなく地方大会で敗退している。大学時代に直接話を聞く機会があったが、その時も高校時代に関しては自分の中で手応えを感じたことはなかったと話していた。
才能が開花した大学4年秋、150キロ台を連発
そしてその才能が大きく開花するのは中央大に進学してからである。東都二部ながら1年春から先発の一角に定着すると、2年秋には初の一部でもリーグ4位となる防御率をマーク。学年が上がるごとに体つきは目に見えて立派になり、それに伴ってスピードもアップしていった。
圧巻だったのが4年秋のシーズンだ。最初の登板となった青山学院大との試合で最速157キロをマークすると、その後の試合でも150キロ台を連発。8試合を投げて防御率0.82という見事な成績で大学最後のシーズンを締めくくった。本人が巨人入りを強く希望していたこともあって、1球団のみの入札となったが、12球団OKの姿勢を見せていれば、この年のドラフト戦線は大きく変わっていたことは間違いないだろう。
澤村のように高校入学直後に高いポテンシャルを見せていながらも伸び悩むケースは決して珍しいことではなく、実際、澤村も高校卒業時点ではかなり危うい状態だった。しかしそこから大学、NPB、そしてメジャーへとステップアップすることができたのは、持っていた能力以上に旺盛な向上心とたゆまぬトレーニングがあったからではないだろうか。
今年で34歳とベテランと呼ばれる年齢に差し掛かっているが、まだまだそのボールからは衰えを感じることはない。今年もその剛腕でメジャーリーグを席巻してくれることを期待したい。
Norifumi Nishio
1979年、愛知県生まれ。筑波大学大学院で野球の動作解析について研究。在学中から野球専門誌への寄稿を開始し、大学院修了後もアマチュア野球を中心に年間約300試合を取材。2017年からはスカイAのドラフト中継で解説も務め、noteでの「プロアマ野球研究所(PABBlab)」でも多くの選手やデータを発信している。