2020年12月31日付で松本酒造の取締役を退任し、松本酒造を去ることとなった松本日出彦氏。日本酒「澤やまつもと」で知られ、京都・伏見の地から新たな幡手として、日本酒業界を牽引していくひとりだった日出彦氏はすべてを失った。「松本日出彦という職人を失ってはいけない」。そんな想いで5つの蔵、冨田酒造(滋賀県)、花の香酒造(熊本県)、白糸酒造(福岡県)、せんきん(栃木県)、新政酒造(秋田県)が立ち上がった。2021年3月よりスタートしたのは、日本各地を舞台に、ともに日本酒を作り上げるという前代未聞の取り組み。日出彦氏の活動から垣間見えたのは、新たな価値を生み出すための思考回路と、日本酒業界の未来だった。連載第4回目「せんきん編」(全5回)
「何も新しいことはしていない」という新しさ
武者修行をした5つの蔵で唯一、大学や他の蔵元で醸造学などを学んだ経験がない中、新たな日本酒造りの概念を作った異端児とも言えるのが、栃木県のせんきんだ。200年の歴史を受け継ぎ、第十一代目であり専務取締役を務める薄井一樹氏と、酒造りの現場責任者である杜氏を務める弟の薄井真人氏の二人三脚で成長を続けてきた。
「薄井さんは日本酒業界の流れを変えた人でもあると思うんです。先入観がないから、規格外のことができる。日本酒って基本的な製法としては江戸時代からあまり変化がないけれど、味わいとしてはものすごく変化しているお酒。もちろん、劣化ではなく間違いなく美味しくなっています。今、日本酒の味わいがさらに進化する過渡期だと思っています」(日出彦氏)
せんきんの代名詞といえば、日本酒業界ではタブー視されていた「酸」を軸とした味わい、そして「ナチュール」というコンセプト。それを形作る真髄は「日本酒のドメーヌ化」と「伝統工芸品としての酒造り」だ。金属製のタンクではなく木桶を使い、機械絞りではなく袋絞りにして、人工の乳酸を添加せず生酛造りに移行中。そして、すべて自社内で製造・瓶詰めまで一貫して行うに至る。味わいに関して、薄井氏の考えは至ってシンプル。
「15年前は業界の中で斬新だったかもしれないですが、自分自身、経験値のあるワインからのアプローチだし、酸があったら食べ物との接着剤になるなと。ただそれだけの感覚で日本酒に取り入れたんです。それ以外、何も新しいことなんてしていないんです」(薄井氏)
いわゆる蔵元の跡取りは学校や有名な蔵元で醸造学を学ぶのが通例だが、薄井兄弟は独学。蔵に戻る前にソムリエとして培った、薄井氏の味覚、臭覚、思考の経験値と感覚が味わいに滲む。そんな独自路線を歩んできた薄井氏にも葛藤はあった。
「僕らは先人が普通にやってきたことを忠実に再現しているだけなんです。大量生産・大量消費される酒と一緒になって並んでしまったら、僕らは勝てません。だから、自分たちで作るものにはプライドを持って、テーマを持って、広げていき、その酒を飲んだ方々に喜んでもらいたいと思っています。
でも、ある日、鮨屋でヒデくん(日出彦氏)の造った酒や福岡・白糸酒造の「田中六五」を飲んだ時、こういう日本酒がスタンダートな日本酒なんだなぁと思ったことがありました。自分の中に多少のジレンマがあって、当初は刀でぶった切るみたいなエッジの効いた酸を持つ日本酒を造っていたんですが、そういった日本酒を味わうなかで、酸のアプローチを変えながら現在に至っています。つまり、強力なライバルがいるからこそ、今のせんきんがあります」(薄井氏)
オーガニック・ナチュール、初めての挑戦
せんきんの醸す日本酒の定番は4つ。「オーガニック・ナチュール」(酵母無添加、超自然派「古式生酛」)、「モダン」(酸味と甘み、多様化する現代の食生活にも合う)、「クラシック」(古くて新しい、生酛仕込みで旨みを重視)、「プレミアム」(まさに上質を味わうシリーズ)というコンセプトを持つ。そして、使用するお米は3つ。「亀の尾」(すべての酒造好適米の原点となるお米)、「雄町」(栽培が難しいが、仙禽の農作物の育成環境に合うお米)、「無垢」(山田錦を使用した銘柄、酒造好適米の中で生産量No.1のお米)だ。
今回、せんきんで日出彦氏が武者修行として一緒に造る酒は、「オーガニック・ナチュール」。蔵付き天然酵母で醸し、オーガニックの古代米「亀の尾」を用い、せんきんのコンセプトとビジョンが凝縮したものと言っても過言ではない。日出彦氏にとって、酵母無添加のオーガニック・ナチュールは初の挑戦となる。
「せんきんさんの場合は、亀の尾のお米でナチュールを造るというコンセプトがまず先にありました。もう飛び込むしかなくて。使用する古代米は硬い上に、精米歩合は90%で10%しか削ってないため潰すときの労力が半端じゃない。『一番摺り』から1回約30分、『六番摺り』まで行うなか、交代で摺り続けるんです。昨日の作業で、もう筋肉が悲鳴をあげています(笑)。でもそこから出来上がってくるお酒の味が、他ではないものに仕上がっていて驚きました。せんきんというブランドを構成している大切な要素なんだと。僕はどこの時点で酒を絞って、仕上げるかに集中するのみでした」(日出彦氏)
せんきんで実践している江戸時代の酒造りには虎の巻がない。微生物と対話しながら酒を造っている。発酵の面白さ、奥深さはまだ現代を生きる私たちが体験したことのない味わいの可能性に満ちている。
ライフスタイルの磨き合いができる仲間
5蔵のリーダーと日出彦氏は皆一様に、食べることが好きで、日本酒の話をし出したら止まらず、そして日本酒業界を盛り上げようと互いにいい距離感で切磋琢磨している。
「ヒデくんの武者修行に賛同している蔵は皆、いい意味で子供みたいな集まりなんです。僕らはまだ2年ほどの付き合いですけど。お互い利害関係はないですし、美味しいものを食べたり、旅行に行ったり、日本酒造りだけではなくて、ライフスタイルを磨き合っているというところがある。40歳ぐらいにもなると、最後の最後に集まるべくして集まったメンバーという感じです。僕たちに共通していることがあるとすれば、自分たち自身が誇れる日本酒造りをしようと行動していることかな。あとサウナが好きなこと(笑)」(薄井氏)
全国各地に散らばる蔵同士が集うようになったのもここ数年のこと。10年前までは考えられなかったというほど、今日本酒業界に変化が起きている。今回の武者修行の地である、冨田酒造、花の香酒造、白糸酒造、せんきん、新政の5蔵すべてが、大量生産・大量消費に疑問を持った代であり、生き残りをかけて、各々の地で、各々の信念を持ち一念発起して、文字通り、伝統と革新を体現していく。
「僕は家業を継ぐという責任感ではなくて、自分の生き方として日本酒を造ろうと思ったので、自分の美意識を軸に美味しい酒を造ることは当然として、お米を使い続けて産地を守ること、日本酒を飲んで美味しいと思ってもらえるような習慣を維持・発展させていくことも自身の役目だと思っています」(日出彦氏)