ジョッキー武豊は、実に30年以上もの間、誰もが知る一流の存在として、平然と生き続ける。「愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る」。これは、皇帝ナポレオン1世が残した言葉である。その捉え方には諸説あるが、先の世界を見ることは「狂人」にしかできない、とも解釈できる。きっと、武豊には武豊にしか見えない「未来」がある。
その男、30年一流につき狂人――。誰よりも勝ち、誰よりも地獄を見た孤高の騎手の生き様を「狂人」として見つめてみたい。
競馬一筋という、ぶれない人生の軸
「天職」という言葉がこれほど似合う人物も、そうはいない。1969年3月15日に武家の三男として生を受けた武豊は、幼き頃より「ターフの魔術師」として名実ともにスタージョッキーだった父・邦彦の背中を見ながら育った。実家は、滋賀県の栗東(りっとう)トレーニング・センターにあったため、毎日のように近くの廐舎(きゅうしゃ)の馬にニンジンを与えていたという。小学校での同級生との会話は競馬の話ばかり。卒業文集には「夢は騎手」と記した。
「気がついたら騎手を目指していましたね。親父の存在は憧れでしたし、ヒーローでもありました。プロの騎手になろうと思ったのも、今でも現役でいられるのも、父の影響が一番大きかった。まあ、とにかく大好きだったんですよ、競馬が。だから変な小学生だったと思いますよ。競馬を見ることが一番好きで、皆が見ていた野球とかじゃなかったですからね」
武豊にはふたりの兄がいたが、自分は身体の線が細かったため、何をやってもいつも敵わなかった。3月生まれのため同級生と比べても身体は小さいほうで、いつも劣等感にさいなまれていた。だが、小学5年で栗東乗馬苑の乗馬クラブに入ると、それが「得意だったし、向いていた」。それ以来、学校を終えると、毎日乗馬を楽しみ、土日になれば必ず競馬中継を観戦。その頃から武豊の思考回路の優先順位は「競馬」がナンバーワンになった。物心ついた時から、狂うほどに競馬に魅せられ、狂うほどに上手くなりたかった。
中学卒業後の’84年には自らの意志でJRAの競馬学校に入学。下積み生活の末に、3年後の3月にプロデビュー。そこから約34年間、「天職」をまっとうし続けている。
「僕の場合、せっかく騎手になったんだから、“とことん好きになろう、とことんやってやろう”っていう気持ちはありました。もう覚悟を決めて、自分で天職にしちゃったんですよ」
好きな職業だから燃え尽きることはない
ルーキーイヤーから頭角を現し、69勝を挙げて当時の新人最多勝記録を27年ぶりに更新した。その翌年には、スーパークリークに騎乗した菊花賞でGⅠ初制覇。3年目には年間133勝を挙げ、初のJRA全国リーディングジョッキー(年間最多勝利)を獲得し、まさに名実ともにスタージョッキーの仲間入りを果たした。
そこから30年余りが経過し、武豊は51歳になった。その間、全国リーディングジョッキーを18回、地方海外含めて100勝以上のGⅠ勝利、4200勝を超える通算勝利など数々のJRA歴代最多記録を保持。まさに、競馬界のレジェンドであり、その名は人類史に残るといっても過言ではない。
並大抵のアスリートであれば、ある程度の実績を残せば、それ以上を求めなくなる時期が来てもおかしくない。しかし、武豊という日本競馬界の唯一無二の存在においては、燃え尽きてしまう様子がいっさいない。これほどまでに長く第一線で活躍し続け、かつ、老若男女の誰もが知る国民的なアスリートは世界を探してもいないのではないだろうか。あのイチローも現役生活は28年。三浦知良は30年以上プロで競技を続けるが、年間を通して試合に出続けているわけではない。
「相手が馬なので、正解がわからないなかで続けているのが、長く続いている要因かもしれません。相手も話してくれないし、打ち合わせも反省会もできないし。そのなかでやっているので。“これでできた! 完璧”ということがないんです。まだ全然極められていないですね」
2万回以上の騎乗をすべて記憶している
これまで2万回を超える騎乗をしているが、そのすべての馬とレースを「記憶している」と確信に満ちた声で言い切る。体格面では50キロ強の体重を約30年間維持。食事制限をすることなく、お酒も好きなほうだ。それでも、長く一流でいられる理由は、努力を努力とも思わぬほど、当たり前のようにトレーニングに励んでいるからだ。
現在、月曜日と火曜日は基本的にはオフではあるが、自らがプロデュースした京都市内の『テイクフィジカルコンディショニングジム』や、ホテルの会員制ジムなどで必ず2時間ほど汗を流す。水曜日と木曜日は調教のため、早朝5時台には京都市の自宅を出発。運転手はつけず、愛車メルセデス・ベンツのハンドルを握り、滋賀県の栗東トレーニング・センターまで出向いている。そして、金曜日になれば、週末のレースのために日本全国を移動し、土日は言わずもがな朝から夕方まで複数のレースに騎乗。そんな生活を30年以上毎週続ける。まさに、狂うような競馬漬けの人生を送っているのだ。
「17歳でデビューしてから、約34年もやっていますけど、実際に飽きたことはないです。一番の理由は“競馬が好き”ということですかね。“もっと勝ちたい。もっと上手くなりたい”という気持ちは、ある意味ずっと変わっていないですね」
地獄を見ても乗り越えられた理由
一般的には数々の栄光ばかりに目が行きがちだが、誰よりも地獄も経験しているのが武豊だ。史上最多の4200勝以上の勝利を手にしている一方で、1万8000回以上の敗北も味わっているのもまた事実。通算勝率は「1割台」と聞くと、意外に感じるかもしれない。そして、何よりも武豊にとって最大の挫折は、約11年前の落馬事故である。41歳を迎えたばかりの2010年3月27日、阪神競馬場で行われた「毎日杯」で騎乗馬が転倒し、頭から地面に叩きつけられ、左鎖骨遠位端(えんいたん)骨折、腰椎横突起(おうとっき)骨折、右前腕裂創(ぜんわんれっそう)の重傷を負った。全治半年。「怪我して、あれだけ痛い思いをしても、“1日でも早く戻ろう”としか思わなかった。なかなか立てなくて、やっぱり凹みましたね。でも、嫌だなぁとかやめようって思ったことは一度もないですもんね」
懸命なリハビリ生活に励み、驚異的な回復スピードで約4ヵ月後にはレースに復帰したが、本当の地獄はそこから。復帰を焦るあまり、左肩が完治しないまま誤魔化して騎乗していた。その影響で、通常のパフォーマンスを発揮することができず、まことしやかに「武豊限界説」が流れ始め、馬主からの騎乗依頼も減るという悪循環に陥ってしまったのだ。それまで年間100勝以上は当たり前だったが、’10年は69勝まで勝利数が減り、’11年は64勝、’12年は56勝と自己ワーストを更新し続けた。
「この仕事をやっているからには怪我は常に覚悟しているところはあるんですよ。だから怪我したことに対して後悔はないんです。でも、いつもいつも思うようにいかないですから。あの時は、さすがにしんどい時期でしたね……」
そんな時に自らを支えた原動力は何だったのだろうか。
「うまくいかなくても、やっぱり好きなんですね、自分の職業が。だから乗り越えられるっていうか、続けられたのかな」
まさに原点回帰。自らと向き合い、やれることは何でもやった。年間200勝を挙げていた2000年代前半の頃のビデオを何度も見返し、理学療法士によるトレーニングを新たに取り入れ始めた。当時44歳。そんな努力の甲斐もあり、肩の痛みが完全に消えた時に、ある1頭の馬と出会った。キズナ号である。’13年3月。ちょうど3年前に落馬したレース「毎日杯」で勝利を収めると日本ダービーも制覇。ディープインパクト以来8年ぶりの栄冠だった。
「キズナでダービーを勝てたことは本当に、今でも僕のジョッキー生活においての分岐点となっています。それぐらい自分のなかでは大きい勝利でした」
その年、武豊は97勝まで勝利数を伸ばし、JRAの特別賞を受賞、’15年には6年ぶりに年間100勝を達成した。’16、’17年は名馬キタサンブラックに騎乗し、2年でGⅠを実に6勝し、まさに“JRAに武豊あり”ということを証明したのである。
徹底しすぎるほどのモノへのこだわり
30年以上にわたり武豊がプロフェッショナルとして活躍できる、もうひとつの理由に「徹底したモノへのこだわり」がある。ムチ、鞍(くら)、アブミ(騎乗時に足を乗せる道具)などの仕事道具はもちろんのこと、ゴルフクラブ、靴、鞄、クルマなど、“大人の男”としての嗜みにもまったく手を抜かないのである。モノ選びの判断基準は実にシンプルだ。
「モノを購入する時の決め手は、自分が好きか好きじゃないかです。流行っているかどうかは関係ないですね。ただ、自分が好きなことを続けている。仕事と一緒ですね」
’19年秋に完全オーダーメイドのゴルフクラブブランド「MUQU(ムク)」のアンバサダーに就任すると、多忙の合間を縫って、自らのアイアンを求めるためだけに愛知県清須市の製造工場へ出向く徹底ぶりだった。そこで閃いたのが、「ゴルフのアイアンがオーダーで作られるのならば、アブミもできるのでは?」という新たなアイデアだった。
思い立てば即行動。これまで固定の馬具業者が製造していたものしか存在しなかったアブミ業界に一石を投じ、独自のプロジェクトを開始。後輩ジョッキーや、乗馬界の未来のために、開発費から製造費まで資金はすべて自らの財布から持ち出している。しかも、このプロジェクトで利益が出たとしても、全額寄付に回すという。そう、武豊の判断基準に、ビジネスの要素はない。なぜそこまで徹底するのか? と知人から尋ねられた武豊は、こうひと言、答えたという。
「俺、武豊やで(笑)」
究極のジェネラリストであり、真のプロフェッショナル。「俺、〇〇やで」という言葉を発して誰からも顰蹙(ひんしゅく)を買わない人物を、他に知らない。
尋常ならざる「時間」と「移動」の概念
武豊の行動原則として挙げられるのが「時間」と「移動」に対しての概念が常人とは大きく違うことだ。365日24時間、いつなんどきも自分にとって「意味のある行動」と判断すれば、世界中どこへでも飛ぶのを信条とする。現在は新型コロナウイルスの感染拡大でその哲学を貫くことは容易ではないが、それでも’20年9月下旬には世界最高峰と称されるレース「凱旋門賞」に出場するため、決死の覚悟でフランスへ飛び立った。残念ながら騎乗予定だった馬が出走取消となったため、“空振り”に終わってしまい、しかも新型コロナウイルス感染拡大防止のため帰国後は2週間の自粛が命ぜられ、国内レースに出場することができなかった。それでも、「自分の行動に迷いはなく後悔もない」というのが狂人・武豊たるゆえんなのである。
「凱旋門賞制覇」というまだ見ぬ夢は持つが、ジョッキー以外の姿となった自らの未来はまだ想像できていないという。
インタビューの終盤、「過去に一番印象に残っているレースは何ですか?」と質問をした。しかし、答えが返ってきた瞬間に、それは愚問だと気づいた。
「それは難しい。順番はつけられない。まあ、僕にとっては、そんなことよりも次の1勝のほうが大事ですね」
過去も現在も、多くを語ろうとはしない。武豊は、やはりナポレオン級の狂人なのかもしれない。
Yutaka Take
1969年3月15日、京都府生まれ。’79年乗馬を始め、’84年にJRAの競馬学校に入学。’87年に騎手デビューを果たし、翌年菊花賞を制しGⅠ初勝利。地方海外含め100勝以上のGⅠ制覇、史上最速・最年少(26歳4ヵ月)で通算1000勝達成、通算4200勝達成など数々の伝説的な最多記録を持つ。2005年、ディープインパクトとのコンビで史上2例目の無敗での牡馬3冠を達成。’10年の落馬負傷により、約3年に及ぶスランプに陥るも’13年の日本ダービーをキズナで制して完全復活。50歳を迎えた’19年も昭和・平成・令和と3元号GⅠ制覇を達成。父は元ジョッキーで調教師も務めた故・武邦彦。弟は元ジョッキーで、現在は調教師を務める武幸四郎。