日本の歴史において、誰もが知る織田信長。歴史に名を残す戦国武将のなかでも、信長は極めて特異な人物だった。交渉力、絶体絶命のピンチを乗り越えるアイデア力、咄嗟の判断力……。信長の奇想天外で機転の効いた行動は、日々無理難題を強いられるビジネスパーソンのヒントになるだろう。今回は、明智光秀によって本能寺の変が起こされた際、信長が発した一言についてのエピソードをご紹介! 作家・石川拓治さんによるゲーテの人気コラム「信長見聞録」を朗読という形で再発信する。
すべてを察した信長の、明智光秀への思い
天正十年(1582)六月二日早暁(そうぎょう)のこと。寂(せき)とした本能寺の寝所に、遠くで人の騒ぐ声が聞こえた。早起きの信長は、小姓相手に朝の身支度でもしていたのだろう。『信長公記』は、信長も小姓も「当座の喧嘩を下々の者ども仕出し候と、おぼしめされ候」と記している。誰かが喧嘩でも始めたのだろう、と。
当時の本能寺は寺域だけで一町(約110m)四方、周囲に三十余の子院を抱えていた。信長が度々京都での宿所としていたから、堀を巡らせ塀を築き固く防御されていた。この朝の信長の警護は三十人ばかりの小姓だけだったが、門前の騒ぎなど脅威には思わなかったのだ。
ところが、騒ぎの音は一向に已(や)まない。やがて鬨(とき)の声まで上がり、パンパンと栗の爆ぜるような音が聞こえた。信長の耳に染み付いた音だ。銃弾が打ち込まれたのだ。喧嘩ではない。それは紛れもない戦場の音だった。
「是は謀叛か。如何なるものの企てぞ」
信長の下問に答えたのは森乱だった。諱(いみな)は成利(なりとし)。俗称の蘭丸が有名だが、信長は乱という幼名で呼んだ。この時十八歳。十三で小姓となり、信長の側近く仕えた。講談では白皙(はくせき)の美少年ということになっているが、信長が愛したのはこの若者の機転だ。行動の早い信長は、出陣する時でさえ家臣を置き去りにした。信長の動きの先を読まなければ、とても仕えられない主君なのだが、森乱は誰よりも鋭く信長の気持ちの先を読む。この時もおそらく「下々の者の喧嘩だろう」と信長が他の小姓と話し合っている間に、外に様子を見に行ったのだ。予想通り騒ぎが収まればいいが、そうでなければ「何の騒ぎだ?」と問われるに決まっている。そして寺を囲む桔梗紋(ききょうもん)の旗印を見た。
「明智が者と見え申し候」
森乱の即答に対する信長の感想は、短い一言だけだった。
「是非に及ばず」
言葉が短いのは、その瞬間にすべてを察したからだろう。この時期の畿内は、ほぼ完全な軍事的空白地帯となっていた。信長の脅威となる勢力はない。だから彼は三十人ほどの小姓しか連れていなかった。信長の油断と見做(みな)す向きもあるが、それはおそらく違う。なによりも信長は無駄を嫌う人だった。敵がいなければ兵は要らないのだ。可能な限り身軽でいることを好んだ彼は、自らも小姓たちにも武装さえさせていなかった。
音声で聞く! 5分で学べる歴史朗読
Takuji Ishikawa
文筆家。1961年茨城県生まれ。著書に『奇跡のリンゴ』(幻冬舎文庫)、『あいあい傘』(SDP)など著書多数。