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2021.02.12

本能寺の変で信長が最後に発したひと言とは?

織田信長は、日本の歴史上において極めて特異な人物だった。だから、信長と出会った多くの人が、その印象をさまざまな形で遺しており、その残滓(ざんし)は、四百年という長い時を経て現代にまで漂ってくる。信長を彼の同時代人がどう見ていたか。時の流れを遡り、断片的に伝えられる「生身の」信長の姿をつなぎ合わせ、信長とは何者だったかを再考する。連載「信長見聞録-天下人の実像-」第二十五章 森 成利。

信長見聞録

信長のコトバ:「是非に及ばず」

天正十年(1582)六月二日早暁(そうぎょう)のこと。寂(せき)とした本能寺の寝所に、遠くで人の騒ぐ声が聞こえた。早起きの信長は、小姓相手に朝の身支度でもしていたのだろう。『信長公記』は、信長も小姓も「当座の喧嘩を下々の者ども仕出し候と、おぼしめされ候」と記している。誰かが喧嘩でも始めたのだろう、と。

当時の本能寺は寺域だけで一町(約110m)四方、周囲に三十余の子院を抱えていた。信長が度々京都での宿所としていたから、堀を巡らせ塀を築き固く防御されていた。この朝の信長の警護は三十人ばかりの小姓だけだったが、門前の騒ぎなど脅威には思わなかったのだ。

ところが、騒ぎの音は一向に已(や)まない。やがて鬨(とき)の声まで上がり、パンパンと栗の爆ぜるような音が聞こえた。信長の耳に染み付いた音だ。銃弾が打ち込まれたのだ。喧嘩ではない。それは紛れもない戦場の音だった。

「是は謀叛か。如何なるものの企てぞ」

信長の下問に答えたのは森乱だった。諱(いみな)は成利(なりとし)。俗称の蘭丸が有名だが、信長は乱という幼名で呼んだ。この時十八歳。十三で小姓となり、信長の側近く仕えた。講談では白皙(はくせき)の美少年ということになっているが、信長が愛したのはこの若者の機転だ。行動の早い信長は、出陣する時でさえ家臣を置き去りにした。信長の動きの先を読まなければ、とても仕えられない主君なのだが、森乱は誰よりも鋭く信長の気持ちの先を読む。この時もおそらく「下々の者の喧嘩だろう」と信長が他の小姓と話し合っている間に、外に様子を見に行ったのだ。予想通り騒ぎが収まればいいが、そうでなければ「何の騒ぎだ?」と問われるに決まっている。そして寺を囲む桔梗紋(ききょうもん)の旗印を見た。

「明智が者と見え申し候」

森乱の即答に対する信長の感想は、短い一言だけだった。

「是非に及ばず」※

言葉が短いのは、その瞬間にすべてを察したからだろう。この時期の畿内は、ほぼ完全な軍事的空白地帯となっていた。信長の脅威となる勢力はない。だから彼は三十人ほどの小姓しか連れていなかった。信長の油断と見做(みな)す向きもあるが、それはおそらく違う。なによりも信長は無駄を嫌う人だった。敵がいなければ兵は要らないのだ。可能な限り身軽でいることを好んだ彼は、自らも小姓たちにも武装さえさせていなかった。

そういう自分たちの姿を人々に見せるのは、天下に静謐(せいひつ)をもたらしたという、彼なりの宣言でもあった。武力で平和をもたらした次の段階として、信長は都の人々に武の要らない世の到来を見せたかったのだ。もっともその平和を盤石にするためには、もうしばらく畿内の外での戦を続ける必要があった。次なる敵は毛利だ。その毛利勢と戦う秀吉の援軍に送り出した明智光秀の一万余の兵が、丹波から西に向かうところだった。その軍勢だけが、この広い軍事的空白地帯の唯一の例外だった。

「明智の兵と見えます」と聞いた信長が「確かか?」と聞き返さなかったのは、答えたのが万事に抜かりのない森乱であるだけでなく、それが考えられる唯一の答えだったからだ。そして、信長が家臣のなかでも武将としての才能を最も高く評価していた光秀の軍勢に囲まれたからには、生き延びる可能性がないことを瞬時に悟った。

「なぜ光秀が」と自問することも、「目をかけたのに」と怒ることもなかったろう。そんなことをしても無意味だからだ。残された短い時間で、信長がすべきことはひとつしかない。言うまでもない。最後の戦だ。

※『信長公記』(新人物往来社刊/太田牛一著 桑田忠親校注)389ページより引用

Takuji Ishikawa
1961年茨城県生まれ。文筆家。不世出の天才の奮闘を描いた『奇跡のリンゴ』『天才シェフの絶対温度』『茶色のシマウマ、世界を変える』などの著作がある。織田信長という日本史上でも希有な人物を、ノンフィクションの手法でリアルに現代に蘇らせることを目論む。

TEXT=石川拓治

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