日本の歴史において、誰もが知る織田信長。歴史に名を残す戦国武将のなかでも、信長は極めて特異な人物だった。交渉力、絶体絶命のピンチを乗り越えるアイデア力、咄嗟の判断力……。信長の奇想天外で機転の効いた行動は、日々無理難題を強いられるビジネスパーソンのヒントになるだろう。今回は、「無辺」と呼ばれ本物の聖人として崇められていた人物と信長とのエピソードをご紹介! 作家・石川拓治さんによるゲーテの人気コラム「信長見聞録」を朗読という形で再発信する。
本物の聖者と崇められていた旅僧
聖徳太子が建立した石場寺が安土の東にあった。
3年がかりの大工事を経て安土城が完成し、壮大な天守に信長が移り住んでしばらくした頃、この寺の門前に、大勢の男女が集まって昼も夜も立ち去らないという珍事が起きた。石場寺の栄螺坊(さざえぼう)の所に滞在するひとりの僧が、奇蹟を見せるという噂が広まったからだ。
無辺と名乗る旅僧は、人々が謝礼に捧げた金品を受け取らずに、栄螺坊に与えてしまうらしい。私欲のない本物の聖者が現れたという評判が、山上で暮らす信長にまで届くようになる。
ある池に大蛇が出るという噂を聞いた時には、池の底に自ら潜って大蛇が実際に存在するのか否かを確かめようとしたくらいだ。この世の不思議というようなものに信長はいつも激しい好奇心を燃やした。この時も無辺の顔を自分の目で見たいと言いだし、安土城に呼びつける。
栄螺坊に伴われて参上した旅僧を、信長は廐(うまや)で引見する。僧をしげしげと眺め、何かを思案しているようだった、と信長公記は記している。
「客僧の生国はどこか?」
信長がたずねると、僧は待っていましたとばかりに「無辺」と答える。無辺とは、無限の世界を意味する仏教用語だ。広大無辺の宇宙で生まれたと大言壮語をしたのだろう。人々はそれで誑かされ、その「無辺」が僧の呼び名となったのだった。
信長は腹を立てたはずだ。というのも、彼は既に無辺を観察し終えていた。しげしげと眺めて思案し、これはどうやら普通の人間らしいと見当をつけていた。けれど怒りを隠し、辛抱強く質問を続ける。
「では唐人か、天竺人か?」
無辺は鈍感にも、天下人の怒りを察知できなかった。またしても的外れの返答を繰り返す。
「ただの修行者です」
信長は怒らなかった。ただ周囲の者にあることを命じる。
「生国が我が国でも唐でも天竺でもないとは、人でないということか。さては化け物か。炙ってみるから、火を用意せよ」
冗談でないことは明らかだ。その程度は日常茶飯なのだ。無辺は慌てて答えを改める。
「出羽の羽黒の者です」
羽黒山は当時から修験道で知られていた。本当に羽黒の出身かどうかはともかく、化けの皮は剥がれた。それでも信長は念のため、奇蹟を見せるよう催促する。無辺が何もできないでいると、こう言い放つ。
「此の上は、無辺に恥をかかせ候へ」
そして無辺の髪をまだらに切り落とさせ、裸に縄をかけ街中で晒し者にしたうえで、安土から追放した。もはや誰も無辺を相手にする者はなかった。処罰はそれで十分と考えたのだろう。
音声で聞く! 5分で学べる歴史朗読
Takuji Ishikawa
文筆家。1961年茨城県生まれ。著書に『奇跡のリンゴ』(幻冬舎文庫)、『あいあい傘』(SDP)など著書多数。