織田信長は、日本の歴史上において極めて特異な人物だった。だから、信長と出会った多くの人が、その印象をさまざまな形で遺しており、その残滓は、四百年という長い時を経て現代にまで漂ってくる。信長を彼の同時代人がどう見ていたか。時の流れを遡り、断片的に伝えられる「生身の」信長の姿をつなぎ合わせ、信長とは何者だったかを再考する。
信長のコトバ:「此の上は、無辺に恥をかかせ候へ」
聖徳太子が建立した石場寺が安土の東にあった。※1
3年がかりの大工事を経て安土城が完成し、壮大な天守に信長が移り住んでしばらくした頃、この寺の門前に、大勢の男女が集まって昼も夜も立ち去らないという珍事が起きた。石場寺の栄螺坊(さざえぼう)の所に滞在するひとりの僧が、奇蹟を見せるという噂が広まったからだ。
無辺と名乗る旅僧は、人々が謝礼に捧げた金品を受け取らずに、栄螺坊に与えてしまうらしい。私欲のない本物の聖者が現れたという評判が、山上で暮らす信長にまで届くようになる。
ある池に大蛇が出るという噂を聞いた時には、池の底に自ら潜って大蛇が実際に存在するのか否かを確かめようとしたくらいだ。この世の不思議というようなものに信長はいつも激しい好奇心を燃やした。この時も無辺の顔を自分の目で見たいと言いだし、安土城に呼びつける。
栄螺坊に伴われて参上した旅僧を、信長は廐(うまや)で引見する。僧をしげしげと眺め、何かを思案しているようだった、と信長公記は記している。
「客僧の生国はどこか?」
信長がたずねると、僧は待っていましたとばかりに「無辺」と答える。無辺とは、無限の世界を意味する仏教用語だ。広大無辺の宇宙で生まれたと大言壮語をしたのだろう。人々はそれで誑かされ、その「無辺」が僧の呼び名となったのだった。
信長は腹を立てたはずだ。というのも、彼は既に無辺を観察し終えていた。しげしげと眺めて思案し、これはどうやら普通の人間らしいと見当をつけていた。けれど怒りを隠し、辛抱強く質問を続ける。
「では唐人か、天竺人か?」
無辺は鈍感にも、天下人の怒りを察知できなかった。またしても的外れの返答を繰り返す。
「ただの修行者です」
信長は怒らなかった。ただ周囲の者にあることを命じる。
「生国が我が国でも唐でも天竺でもないとは、人でないということか。さては化け物か。炙ってみるから、火を用意せよ」
冗談でないことは明らかだ。その程度は日常茶飯なのだ。無辺は慌てて答えを改める。
「出羽の羽黒の者です」
羽黒山は当時から修験道で知られていた。本当に羽黒の出身かどうかはともかく、化けの皮は剥がれた。それでも信長は念のため、奇蹟を見せるよう催促する。無辺が何もできないでいると、こう言い放つ。
「此の上は、無辺に恥をかかせ候へ」※2
そして無辺の髪をまだらに切り落とさせ、裸に縄をかけ街中で晒し者にしたうえで、安土から追放した。もはや誰も無辺を相手にする者はなかった。処罰はそれで十分と考えたのだろう。
その後無辺のさらなる悪事が露見し、信長は追っ手をかけて無辺を処刑するのだが、その後で栄螺坊を詰問する。
「なぜあんな不埒な男をこの城下に置いたのか?」
「石場寺のお堂の雨漏りを直す費用を捻出するために、勧進僧(かんじんそう)としてしばらく置きました」
勧進とは寺社の建立や修繕のための寄付を募ること。説法の得意な者が雇われることがよくあった。信長はそう聞いて、栄螺坊に銀30枚を下げ渡す。
信長と石場寺には因縁があった。足利義昭を奉じて上洛した時の戦で、織田の兵が石場寺を焼いたのだ。修繕が必要なのはそのためだったはずだが、栄螺坊はそうは言わずに、「雨漏りを直すため」と言うに止めた。その気遣いが、信長の琴線に触れたに違いない。
※1:現在の表記は「石馬寺」
※2:『信長公記』(新人物往来社刊/太田牛一著、桑田忠親校注)298ページより引用
Takuji Ishikawa
1961年茨城県生まれ。文筆家。不世出の天才の奮闘を描いた『奇跡のリンゴ』『天才シェフの絶対温度』『茶色のシマウマ、世界を変える』などの著作がある。織田信長という日本史上でも希有な人物を、ノンフィクションの手法でリアルに現代に蘇らせることを目論む。