織田信長は、日本の歴史上において極めて特異な人物だった。だから、信長と出会った多くの人が、その印象をさまざまな形で遺しており、その残滓(ざんし)は、四百年という長い時を経て現代にまで漂ってくる。信長を彼の同時代人がどう見ていたか。時の流れを遡り、断片的に伝えられる「生身の」信長の姿をつなぎ合わせ、信長とは何者だったかを再考する。
第二十一章 伊勢神宮
伊勢神宮の式年遷宮(しきねんせんぐう)は、20年に一度行われる。持統(じとう)天皇の四年、西暦で言えば690年から続く祭祀(さいし)だ。今から7年前、2013年に持統帝の時代から数えて62回目の遷宮が行われ、話題になったことを記憶している読者も少なくないだろう。
なぜ20年に一度なのか、なぜ内宮(ないくう)と外宮(げくう)および14の別宮(べつぐう)のすべての正殿と、千数百点にものぼる宝物(神宝)のすべてを新たに作り変えるのか。その理由はよくわかっていない。
ただひとつだけわかっているのは、この祭祀によって、太古の建築様式や、工芸技術がほぼ昔のままの形で現代に伝えられているということだ。
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第二十二章 武田勝頼
「彼知己知者、百戦不殆」
春秋時代の兵法書『孫氏』の一節だ。敵(彼)を知り己を知れば、百戦危うからず。「己知」はさておき、「彼知」もなかなか難しい。偵察衛星や軍事ドローンを駆使できる今でも難しい。まして信長の時代、戦で一番難しいのは「彼知」だった、と言っても過言ではない。
この時代の逸話には、敵の兵力を正しく推測する知恵にまつわる話が少なくない。目の前の敵の数でさえ、地形やこちらの心理状態によって、時に何倍もの単位で見間違えるというのが、現実の戦場を経験した人々の共通認識だった。
眼前の敵ですらそうなのだから、例えば隣の隣の国の大名の軍事力を正確に知ることなどほとんど不可能だった。他国に潜入し諜報活動を行う、乱破(らっぱ)とか素破(すっぱ)と呼ばれた専門職があったという話もあるが、情報の精度は高くはなかったはずだ。
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第二十三章 河尻秀隆
武田勝頼との最後の戦に臨んだ信長が、慎重のうえにも慎重を期したのは、戦というものの不可解さを彼がよく知っていたからでもある。戦場では何が起きるかわからない。
小勢が時に何倍もの大軍を打ち破る。万余(まんよ)の軍勢で怒濤のごとく押し寄せた今川義元は、信長のほとんど目の前で頸(くび)を落とされたのだ。大将を失った大軍の信じ難いほどの脆(もろ)さは彼の若い心に深く刻まれたはずだ。
大軍も結局は人の集まりなのだ。求心力を失えば簡単に烏合(うごう)の衆と化す。反対に士気が十分に高ければ、寡(か)勢で多勢を打ち破ることも不可能ではない。だからこそ弱小勢力だった頃の信長は先頭に立って戦った。我が身を危険に晒すしか他に勝つ方法がなかったからだけれど、それでも生き延びることができたのは、信長が常に戦術を改良し続けたからだ。槍兵に三間半の長槍を持たせたのも、大量の鉄砲を調達したのも、鉄板で装甲した大船を建造したのも、そのすべてが戦に勝つ工夫だった。
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第二十四章 徳川家康
信長が諏訪を発ち帰国の途についたのは、天正十年(1582)四月二日のことだ。馬廻り衆や主だった将だけを伴い、東国の名所を見物しながらのゆったりした帰国だった。迅速を旨とした信長の人生における珍事といっていい。もっとも信長のすることだ。目的がある。そのひとつが、富士山見物だった。
「富士の根かたを御見物なされ、駿河遠江へ御廻り候て、御帰洛なすべき」※と信長が命じたと信長公記には記されている。自らの行為に「御見物なされ」と敬語を使ったのは、筆者であり信長の家来だった太田牛一の主君への遠慮だろう。公記には、この信長の言葉が多少言い回しを変え二度記されている。よほど富士見物が楽しみだったのだろう。実際に信長一行が雄大な富士の姿を眺めて心を躍らせる様子を、牛一は印象的に描いている。現代の富士宮市あたりでは、信長の小姓衆(こしょうしゅう)が富士の麓(ふもと)で「お馬をせめさせられ、御くるひなされ」た。「御くるひ」は御狂いだ。晩年の信長は時々それをやった。詳細は不明だが、模擬戦という説がある。いずれにせよ武人であった牛一が「御狂い」と呼ぶほど激しい騎馬での「遊び」だったことは確かだ。かつてのように軍勢の先頭に立って戦うような真似ができなくなった天下人信長の気晴らしだったのだろう。
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Takuji Ishikawa
1961年茨城県生まれ。文筆家。不世出の天才の奮闘を描いた『奇跡のリンゴ』『天才シェフの絶対温度』『茶色のシマウマ、世界を変える』などの著作がある。織田信長という日本史上でも希有な人物を、ノンフィクションの手法でリアルに現代に蘇らせることを目論む。