織田信長は、日本の歴史上において極めて特異な人物だった。だから、信長と出会った多くの人が、その印象をさまざまな形で遺しており、その残滓(ざんし)は、四百年という長い時を経て現代にまで漂ってくる。信長を彼の同時代人がどう見ていたか。時の流れを遡り、断片的に伝えられる「生身の」信長の姿をつなぎ合わせ、信長とは何者だったかを再考する。
信長のコトバ:「民百姓等に悩みを懸けさせられ候ては、入らざる」
伊勢神宮の式年遷宮(しきねんせんぐう)は、20年に一度行われる。持統(じとう)天皇の四年、西暦で言えば690年から続く祭祀(さいし)だ。今から7年前、2013年に持統帝の時代から数えて62回目の遷宮が行われ、話題になったことを記憶している読者も少なくないだろう。
なぜ20年に一度なのか、なぜ内宮(ないくう)と外宮(げくう)および14の別宮(べつぐう)のすべての正殿と、千数百点にものぼる宝物(神宝)のすべてを新たに作り変えるのか。その理由はよくわかっていない。
ただひとつだけわかっているのは、この祭祀によって、太古の建築様式や、工芸技術がほぼ昔のままの形で現代に伝えられているということだ。
使われるヒノキの数だけでも1万本を超えるという。当然のことながら、莫大な費用がかかる。ちなみに、2013年の式年遷宮には約550億円の費用を要したと言われている。
そんな祭礼が1300年以上も続いていること自体が奇跡的だけれど、実は一度だけ途絶えかけたことがある。室町時代の後半、正確には1462年に内宮の式年遷宮が行われたのを最後に中断してしまうのだ。
原因は室町幕府の衰微(すいび)だ。
5年後の1467年には応仁の乱が始まり、日本は戦国時代に突入する。
神宮の式年遷宮は国家事業として行われ、費用は諸国の荘園などへの臨時課税で賄(まかな)われていた。役夫工米(やくぶくまい)と呼ばれたこの税は、室町時代以降は幕府が徴収するようになっていた。その幕府が弱体化して役夫工米の徴収が滞り、式年遷宮の費用が捻出できなくなったのだ。
そして百年の月日が流れる。
伊勢神宮の神職、上部貞永(うわべさだなが)が信長に式年遷宮の復活を嘆願したのは1582年、すなわち天正十年正月のことだ。
信長は比叡山を焼き、伊勢長島の一向一揆を根切りにするなど、宗教と激しく対立した印象がある。相手が僧侶でも容赦しなかったのは事実だが、それは宗教を憎んだからではない。
何千人という僧侶、何万人もの門徒を殺した信長だが、信仰そのものを禁じたことは一度もない。彼はただ敵対する者と徹底的に戦っただけなのだ。坊主殺せば7代祟るという言葉があるが、信長にはそういうタブーがなかった。
ルイス・フロイスは信長は無神論者だったと述べている。とはいえ、信長はおそらく神仏の存在を絶対的に否定していたわけではない。もしもそうだったとしたら、彼のことだから本当に宗教弾圧くらいしかねない。
筆者の想像だが、彼の宗教心は現代日本人のそれに近いものだったのではないか。彼自身が積極的に特定の神仏を信じることはなかったが、他人が信じることまでは否定しなかった。それどころか庇護を求められればむしろ積極的に保護した。
百年以上も中断していた式年遷宮の復活を嘆願されると、信長はまずその費用をたずねる。
「千貫あれば、残りは寄進で賄います」と上部が答えると、信長は一昨年の石清水八幡宮の造営では最初三百貫と言っていたのに、最終的には千貫余りかかったことを例に挙げる。
そして「民百姓等に悩みを懸けさせられ候ては、入らざるの旨、御諚(ごじょう)なされ、先ず三千貫仰せ付け」※る。建設費用が当初の見積もりの何倍にも膨れ上がるのは、今も昔も変わらないらしい。信長はそれでは民百姓を悩ませることになるからと、三千貫の寄進を約束する。
民百姓の苦しみを心配したのは、信長が宗教の意味をどう考えていたかを端的に物語っている。宗教の真の目的は神仏ではない。人心の安寧なのだ。そのために民百姓を悩ませるのは本末転倒でしかない。
※『信長公記』(新人物往来社刊/太田牛一著、桑田忠親校注)351ページより引用
Takuji Ishikawa
1961年茨城県生まれ。文筆家。不世出の天才の奮闘を描いた『奇跡のリンゴ』『天才シェフの絶対温度』『茶色のシマウマ、世界を変える』などの著作がある。織田信長という日本史上でも希有な人物を、ノンフィクションの手法でリアルに現代に蘇らせることを目論む。