織田信長は、日本の歴史上において極めて特異な人物だった。だから、信長と出会った多くの人が、その印象をさまざまな形で遺しており、その残滓は、四百年という長い時を経て現代にまで漂ってくる。信長を彼の同時代人がどう見ていたか。時の流れを遡り、断片的に伝えられる「生身の」信長の姿をつなぎ合わせ、信長とは何者だったかを再考する。
第十三章 足利義昭
天下静謐、つまり天下の秩序回復が信長の構想だった。義昭を奉じて上洛し、将軍の権威を復活させたのもそのためだ。
都の平和こそが、天下静謐の鍵なのだ。信長が戻らなければ都は瞬時に諸勢力の争奪の場に戻るだろう。長政に退路を断たれた時、信長がまず考えたのはそのことだったはずだ。だから都へと一目散に駆けた。信長は自身の健在な姿を、都の人々に見せる必要があったのだ。
彼はもちろん現代的意味での平和主義者ではない。信長の生きた時代、権力は武力とほぼ同義語だ。秩序維持には、剥き出しの武力が不可欠だった。だから苛烈に武力を行使した。けれど、野放図に戦をしたわけではない。世の乱れの原因は将軍という権威が権力を失ったことにある。信長は武力で形骸化した将軍権威を再生した。その権威に服することを、人々に求めたのだ。朝倉攻めも、上洛せよという将軍の意向に朝倉義景が従わなかったのが理由だった。
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第十四章 寧々
「おほせのことく、こんとハこのちへはしめてこし、けさんニいり、しうちやくに候」
という書きだしで始まる、信長の手紙が残っている。仮名書きなのは、女性に宛てて書いた手紙だからだ。冒頭に「仰せのごとく」とあるから、返信なのだろう。その次は「今度はこの地へ初めて越し、見参に入り祝着に候」。仰るとおり、あなたが初めてこの地に来て、会えたことを祝着だと喜んでいる。
この地とは安土だ。琵琶湖畔の安土に築城が開始されたのは天正四年一月。巨石で安土山全体を覆うがごとき大土木工事を経て、天守閣が完成するのは三年先だが、気の早い信長は翌月には岐阜から移っていた。
つまり、これはその安土に信長を訪ねた女性が書いた礼状への、信長の返信なのだ。
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第十五章 山中の猿
信長は最後まで京都に居を構えなかった。関白二条晴良の屋敷跡に新邸を築かせたことはあるが、完成すると間もなく東宮に献上している。足利義昭を追放し事実上の天下人となっても、領国と都の間を頻繁に行き来するのが信長の日常だった。
そういうある日。安土で築城が始まる前年、天正三年六月二十六日のことだ。急遽上洛することが決まり、慌ただしく岐阜城を出立した信長は、美濃と近江の国境付近にあった山中という集落で馬を降りて、側近に土地の人々を集めるよう命じる。
村人たちは肝を潰したに違いない。山中は信長が都へと上り下りする道沿いの集落だ。信長が大軍を率いて行くのも、あるいは数名の護衛だけを供に駆け抜けて行くのも見慣れていたはずだが、こんなことは初めてだった。しかも申しつける事があるから、男も女も全員集まれというのだ。何を言われるのかと恐る恐る集まった村人に、信長は木綿二十反を渡すと、意外な頼みごとをする。
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第十六章 柴田勝家
所領安堵つまり、主君が家臣の土地の所有権を認めることが封建時代の主従関係の基礎だった。家臣が主君に従って戦をした理由もそこにある。支配領域を広げるために、彼らは戦ったのだ。天下静謐を目指した信長にとっても、その事情は基本的には変わらない。都を制圧して天下人となり、版図を全国に広げていく過程で、信長は新たに支配した土地を重臣たちに分け与えていく。重臣はそれぞれの地域で一国一城の主となり、信長はその上に君臨した。
そういう意味で、信長といえども、封建制の枠組みから完全に自由なわけではなかった。土地という恩賞なしに、増加していく家臣団を自らの支配下に置くことはできなかったのだ。
とはいえ、信長は彼らに完全な自治を許したわけではない。
天正三年、越前の一向一揆を制圧した信長は、柴田勝家に越前国の八郡を与える。石高49万石。勝家は堂々たる戦国大名となったわけだが、同時に信長は勝家に宛てて九ヵ条の掟書(掟条々)を送っている。越前国を治めるにあたり、こうしなさいよと掟を定めたのだ。
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Takuji Ishikawa
文筆家。著書に『奇跡のリンゴ』(幻冬舎文庫)、『あいあい傘』(SDP)など。「物心ついた頃からずっと、信長のことを考えて生きてきた。いつか彼について書きたいと考えてから、二十年が過ぎた。異様なくらい信長に惹かれるその理由が、最近ようやくわかるようになった気がする」