織田信長は、日本の歴史上において極めて特異な人物だった。だから、信長と出会った多くの人が、その印象をさまざまな形で遺しており、その残滓(ざんし)は、四百年という長い時を経て現代にまで漂ってくる。信長を彼の同時代人がどう見ていたか。時の流れを遡り、断片的に伝えられる「生身の」信長の姿をつなぎ合わせ、信長とは何者だったかを再考する。
第五章 武田信玄
信長がいくつもの血生臭い闘争の末に、尾張全域をなんとかその支配下に置いたのは25歳の頃。血生臭いのは、それが血縁や仲間の血だったからだ。
当時の日本は、実質的には無政府状態だ。足利将軍は京都でかろうじて命脈を保ち、その権威は地方にも届いてはいた。尾張にも守護職斯波氏の家系が残り、一応の尊崇を受けてはいたが、権威のみの存在で、現実的な権力は持たなかった。
この時代の権力とは、すなわち兵力だ。行政権も司法権も立法権も、すべて具体的な軍事力を背景に行使された。尾張国内の十数の城には城主がいて、それぞれに権力を行使していた。
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第六章 今川義元
将棋の目的は敵の王将を詰むことだけれど、プロ棋士の試合で実際に王将が取られることはない。その何手も前に、勝敗が明らかになるからだ。敗北を認めた側が「参りました」と頭を下げ戦いは終わる。
戦国時代の合戦も、これと似ている。大名が戦場で討ち取られた例は皆無に近い。戦いくさの趨勢が決した時点で、主君は幾重にも守られ退却する。万一殺されることでもあれば、現代の戦争で国家元首が戦死するにも匹敵する大事件だ。その珍事が出来したのが、桶狭間だった。
永禄三年五月十九日、新暦では六月十二日。猛火に炙られるような暑い日だった、と古い記録にある。正午過ぎに突如黒雲が湧き、桶狭間山に兵を休めていた今川義元の本陣は、雹混じりの猛烈な驟雨に叩かれる。楠の大木が倒れ、視界が閉ざされるほどの雨風だった。信長の軍勢が襲いかかったのは、その突然の暴風雨が去った直後だ。
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第七章 太田牛一
前回、信長が今川義元を討ち取ったのは僥倖(ぎょうこう)に過ぎなかったと書いた。異論はあるだろう。
「信長は敵本陣の位置を知った上で軍勢を動かし、義元を襲った。桶狭間の勝利は、周到に計画された奇襲によるものだ」というのが従来の定説だからだ。
私はこの説を採らない。理由は無数にあるけれど、ここではふたつだけ書く。第一は『信長公記』だ。信長の弓衆だった太田牛一の書いたこの書物には、桶狭間が奇襲戦だったことを示唆する記述がいっさい存在しない。それどころか、今川軍に肉迫しようと焦る信長を、馬にとりすがり制止する家老衆の姿が描かれている。「この先の隘路(あいろ)を行けば、こちらが小勢であることが敵から丸見えになる」からだ。信長は諫言(かんげん)を聞き入れず突き進む。自軍の姿を敵の目から隠そうなどとは微塵も考えていない。つまり奇襲ではないのだ。信長は正面から今川軍を攻撃しようとしていた。
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第八章 徳川家康
戦国大名たちは、天下統一というゴールを目指して競っていた。後世の人間の多くは、なんとなくそう思っている。けれどそれは、歴史を後から振り返って見ることによる錯覚だ。
信長、秀吉、家康という三人の武将の手で戦国時代に終止符が打たれたという結果を知っているから、そう見える。一寸先は闇なのだ。10年後の日本がどうなっているか誰にもわからないように、当時の大名たちに天下統一という鮮やかな結末は見えていなかった。織田信長という例外を除いては。
誰も天下を夢想しなかったとはいわない。けれど、ただ夢見るだけではなく、明確な目標として意識し、戦略を立て、実現すべく具体的な行動を起こしたのは信長が最初だった。
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Takuji Ishikawa
文筆家。著書に『奇跡のリンゴ』(幻冬舎文庫)、『あいあい傘』(SDP)など。「物心ついた頃からずっと、信長のことを考えて生きてきた。いつか彼について書きたいと考えてから、二十年が過ぎた。異様なくらい信長に惹かれるその理由が、最近ようやくわかるようになった気がする」