織田信長は、日本の歴史上において極めて特異な人物だった。だから、信長と出会った多くの人が、その印象をさまざまな形で遺しており、その残滓(ざんし)は、四百年という長い時を経て現代にまで漂ってくる。信長を彼の同時代人がどう見ていたか。時の流れを遡り、断片的に伝えられる「生身の」信長の姿をつなぎ合わせ、信長とは何者だったかを再考する。
信長のコトバ:「すは、かかれかかれ」
将棋の目的は敵の王将を詰むことだけれど、プロ棋士の試合で実際に王将が取られることはない。その何手も前に、勝敗が明らかになるからだ。敗北を認めた側が「参りました」と頭を下げ戦いは終わる。
戦国時代の合戦も、これと似ている。大名が戦場で討ち取られた例は皆無に近い。戦の趨勢が決した時点で、主君は幾重にも守られ退却する。万一殺されることでもあれば、現代の戦争で国家元首が戦死するにも匹敵する大事件だ。その珍事が出来(しゅったい)したのが、桶狭間だった。
永禄三年五月十九日、新暦では六月十二日。猛火に炙られるような暑い日だった、と古い記録にある。正午過ぎに突如黒雲が湧き、桶狭間山に兵を休めていた今川義元の本陣は、雹混じりの猛烈な驟雨に叩かれる。楠の大木が倒れ、視界が閉ざされるほどの雨風だった。信長の軍勢が襲いかかったのは、その突然の暴風雨が去った直後だ。『信長公記』はこう記す。
「空晴るるを御覧じ、信長槍をおっ取って、大音声を上げて、すは、かかれかかれと、仰せられ、黒煙立てて懸かる」
空が晴れるのを見て、信長は槍を取り、大声で「かかれ、かかれ」と命じ、黒煙を立てて襲いかる。今川方は信長の接近に気づいていなかったらしい。先陣は瞬時に崩れ、槍に鉄砲、旗指物、さらには塗輿(ぬりご)まで捨てて潰走する。塗輿は貴人の乗る漆塗りの輿だ。陣中で輿に乗るような人物は義元しかいない。信長はそこが義元の本陣であると悟り、総攻撃を命じる。
「旗本は是なり。是へ懸かれ」
旗本は主君直属の家臣だ。戦場では、身を盾にして主君を守る近衛兵の役割を果たす。その旗本300騎が義元を中心に円陣を組んで退却していたが、尾張兵の波状攻撃で次々に斃されていく。義元の守りが50騎ばかりに減ると、信長は馬から下りて「若武者共に先を争ひ、つき伏せ、つき倒し、いらったる若ものども、乱れかかって、しのぎをけずり、鍔を割って、火花をちらし」という白兵戦に突入する。若武者とは信長の身辺を守る小姓たちだろう。その屈強の若武者と先を争って信長自ら敵を槍で突き倒す。そこからは合戦というより喧嘩に近い。
槍さえもまだるっこしいと苛立った若武者たちは、刀を抜いて、敵と組んず解れつの殺し合いになる。ちなみに実際の戦場で刀が使われることはあまりなかった。刀は他の武器を失った最終局面で身を守るか、あるいは敵の首を切り落とすためのもの。刀と刀を直接打ち合わせるような戦いでは、勝った側も傷を負うのが常なのだ。周囲は血の臭いが充満したはずだ。
信長側も負傷者、死人が数知れずという惨状を経て、義元はついに捕捉される。輿に乗り公家のような化粧を好んだ義元は柔弱だったという説もあるが、彼は殺到する若武者相手に刀を抜き、膝を断ち割ってひとり倒している。最後は毛利新介に首を落とされるのだが、今際の際にその新介の指を嚙み切ったという言い伝えさえ残っている。
駿遠三の三国を支配する大大名が戦場で首を落とされるという珍事とともに、尾張の二千足らずの軍勢が今川の四万五千の大軍を撃破したという噂は戦国の世を震撼させ、尾張の小勢力に過ぎなかった織田信長の武名が全国に轟くことになる。
けれど信長はこの日を最後に二度と、こういう戦をしなかった。「死のふは一定」という例の小唄もやめた。義元の首を落とせたのが単なる僥倖に過ぎないことを、他の誰よりも彼自身がよく知っていたからだ。
※『信長公記』(新人物往来社/太田牛一著、桑田忠親校注)56ページより引用
Takuji Ishikawa
文筆家。著書に『奇跡のリンゴ』(幻冬舎文庫)、『あいあい傘』(SDP)など。「物心ついた頃からずっと、信長のことを考えて生きてきた。いつか彼について書きたいと考えてから、二十年が過ぎた。異様なくらい信長に惹かれるその理由が、最近ようやくわかるようになった気がする」