織田信長は、日本の歴史上において極めて特異な人物だった。だから、信長と出会った多くの人が、その印象をさまざまな形で遺しており、その残滓(ざんし)は、四百年という長い時を経て現代にまで漂ってくる。信長を彼の同時代人がどう見ていたか。時の流れを遡り、断片的に伝えられる「生身の」信長の姿をつなぎ合わせ、信長とは何者だったかを再考する。
信長のコトバ:「先、兵粮調へ候て、蔵に入れ置き候へ」
戦国大名たちは、天下統一というゴールを目指して競っていた。後世の人間の多くは、なんとなくそう思っている。けれどそれは、歴史を後から振り返って見ることによる錯覚だ。
信長、秀吉、家康という三人の武将の手で戦国時代に終止符が打たれたという結果を知っているから、そう見える。一寸先は闇なのだ。10年後の日本がどうなっているか誰にもわからないように、当時の大名たちに天下統一という鮮やかな結末は見えていなかった。織田信長という例外を除いては。
誰も天下を夢想しなかったとはいわない。けれど、ただ夢見るだけではなく、明確な目標として意識し、戦略を立て、実現すべく具体的な行動を起こしたのは信長が最初だった。
秀吉や家康は、その後継者に過ぎない。征西軍を起こした信玄が天下を目指したのは明白だけれど、それも信長の模倣だ。天下統一こそ、この中世の破壊者の最大の「発明」だった。とはいえ、最初からそんなことを考えていたはずはない。
なにしろ父・信秀の家督を継いだ当初は、かろうじて尾張の三分の一を支配する小勢力に過ぎなかった。東に今川、北に斎藤という大敵を抱え、身内同士の争いに四苦八苦していた。実際家の彼が、そんな途方もない夢を抱いたとは考え難い。
ならば何時、彼の心に天下取りの夢が芽生えたのか。美濃攻略に成功して稲葉山城の主となり、天下布武という印章を彼が用い始めた時点より前であることは確かだ。そんな大望を世に誇示するからには、果たして実現可能な夢か否かを熟慮する期間が必要だったはずだ。
確かな資料でそれを確認することはできない。だからこれはあくまでも想像だが、信長が天下を意識し始めたのは、清洲同盟の時ではなかったか。
桶狭間の戦いの後、今川の支配下にあった松平元康が故郷三河の岡崎城に帰還し、独立の気運を見せる。その元康と信長が清洲で会見し同盟を結んだという伝承がある。あくまでも伝承であり、この会見についての信頼できる記録は見つかっていないのだけれど、信長がどこかで元康と直接対面したことを私は疑わない。池に大蛇が棲むという噂を聞けば、自ら池に飛び込んで確かめる人なのだ。しかも、これはただの同盟ではない。
義元を討ちはしたが、今川氏が滅んだわけでもなければ、信長の軍勢が急増したわけでもないのだ。限られた軍勢で美濃を攻略するには、背後に絶対的に信頼できる本物の同盟者が必要だった。顔も見ずに、そんな同盟を結んだはずはない。
信長が本能寺に斃れる日までこの同盟は続く。元康つまり後の徳川家康は、どんな時も信長を裏切らなかった。信長はおそらくその時、天下布武の夢を元康に語ったのだ。そしてその巨大な夢に元康は動かされた。
元康という同盟者を得て、信長は美濃攻略を本格化する。桶狭間のような決戦は行わなかった。周辺から圧力をかけ、敵の武将を調略でひとりずつ寝返らせるという戦略を七年続けた。
「先まず、兵粮調へ候て、蔵に入れ置き候へ」
佐藤紀伊守親子が内通してきた時、信長はこう言って気前よく兵粮代黄金50枚を贈った。最終的には斎藤方で最有力の武将三人の調略に成功し、稲葉山城を包囲しただけで斎藤龍興を降参させてしまう。
短気な信長が迂遠な方法を選んだのは、敵味方を問わず、兵力の消耗を避けるためだ。敵軍を吸収しながら、信長は着々と兵力を拡大する。その七年の歳月は、天下布武に必要な軍勢を育てるための期間だった。
※『信長公記』(新人物往来社/太田牛一著、桑田忠親校注)78ページより引用
Takuji Ishikawa
文筆家。著書に『奇跡のリンゴ』(幻冬舎文庫)、『あいあい傘』(SDP)など。「物心ついた頃からずっと、信長のことを考えて生きてきた。いつか彼について書きたいと考えてから、二十年が過ぎた。異様なくらい信長に惹かれるその理由が、最近ようやくわかるようになった気がする」