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2026.06.30

佐藤優が、戦争を経験した母に言われた言葉「国に騙されないために高等教育を受けろ」

昭和100年目の2026年。これまで以上に、予測不能かつ瞬時に変貌する世界情勢の中で、変わらぬもの、変わるべきものとは何か。民衆大衆の地から「虫の目」で見上げる五木寛之氏と、歴史を俯瞰する「鳥の目」を持つ佐藤優氏が〈激動の昭和〉と〈混沌する今〉を射抜く。『一寸先は闇』からその一部をご紹介します。

14歳で沖縄戦を経験した母親

五木  昭和の日本を振り返るときには、外からの視線も忘れてはいけないと思います。それは必ずしも「外国から見た日本」という意味ではありません。昭和の日本には、僕が少年時代を過ごした朝鮮半島のほかにも、沖縄、満州といった外部領域がありました。そこから見える戦争、あるいは昭和という時代について語りたいんですよ。

沖縄はあの戦争で悲惨な戦場となり、戦後いったんアメリカの手に渡ってから、昭和47年(1972年)に本土復帰しました。満州は建前上は日本とは別の独立国家だけど、実質的に日本が支配して、多くの日本人が暮らしていたわけです。どちらも「内地」と区別される外部領域ですよね。

佐藤  たしかに、その視点は重要だと思います。

五木  そして佐藤さんのお母様は僕と同世代で、お母様は沖縄戦を経験されたんですよね。

佐藤  沖縄戦のときは母は14歳でしたが、話を聞いていると、それ以降の人生はほとんど余生だったような印象を受けますよ。

五木  ああ、それはわかる気がします。さきほど僕は「戦後の昭和は希薄なものに感じてしまう」といいましたが、それとちょっと似ているかもしれません。物心つくかつかないかのときならともかく、ある程度の自意識を持つ年齢であの濃密な戦中期を過ごすと、敗戦後のことは何か虚しさのようなものを感じるんです。

佐藤  母は久米島(くめじま)(沖縄本島の100キロメートル西に位置する島)から出てきて、那覇(なは)市内の昭和高等女学校に通っていました。しかし昭和19年(1944年)10月10日の沖縄大空襲で校舎が焼けてしまって、勉強どころではなくなったんですね。

五木  あの空襲で、那覇市は市街地の9割が焼失したとされていますね。

佐藤  ええ。それで3年生と4年生は学徒隊(がくとたい)に入り、1年生と2年生は故郷に帰ることになったんです。母は2年生でした。ところが久米島行きの連絡船もみんな空襲で焼けてしまったので、帰るに帰れない。でも当時、母の8歳上のお姉さんが陸軍第62師団の軍医司令部で軍属として働いていたんです。そのお姉さんが妹を引き受けるといって、母は14歳で辞令を受けて軍属になりました。

五木  14歳で軍属になれるものなんですか?

佐藤  異例のことだと思います。そこで給料をもらいながら軍と一緒に行動していたので、ほかの沖縄県民と比べると、母は日本軍に対して好意的なんですよ。

五木  なるほど、そこは微妙に違いがあるんですね。

自決のために渡された手榴弾

佐藤  14歳の母を雇うように推薦してくれたのは前川さんという大尉(たいい)でしたが、この人は沖縄戦が始まる前に亡くなってしまったそうです。その前川さんが、死の直前に母を呼んで、こんな話をしたと母から聞きました。

「オレはもう死ぬ。この戦争は負けるぞ。しかしアメリカは絶対に女子どもに危害を加えないから、おまえは捕虜(ほりよ)になれ。生き残って、いい男と結婚して子孫を残すんだ。こんな戦争に負けたぐらいで日本は滅びない。だから、後は頼むぞ」

これを聞いて、母は「なんという非国民(ひこくみん)なのか」と思ったそうです。

五木  それが当時のリアルな気持ちだと思いますね。いまのテレビドラマだったら、14歳の少女は涙ぐんで素直に(うなず)くでしょう。みんな内心では反戦的な考えを持っていたように描かれますからね。でも、その大尉の言葉に感じた反発が僕にはよくわかります。

佐藤  その陸軍第62師団は、沖縄戦の初動で米軍を迎え撃った部隊でした。「前田高地(まえだこうち)の激戦」と呼ばれる戦い(1945年4月25日~5月6日)です。日本軍の陣地があった前田高地(現在の浦添(うらそえ)市)は米軍に「ハクソー・リッジ」と呼ばれました。ハリウッド映画『ハクソー・リッジ』(2016年)で描かれたのがこの戦闘なんですが、母は、この生き残りなんですよ。ガス弾を食らったとき、ガスマスクを装着するのが遅れると死んじゃうんですが、母はギリギリ間に合った。ただ、ちょっとだけガスを吸ってしまったので、戦後にステロイド剤が普及するまでは喘息(ぜんそく)で苦しんでいました。

五木  まさに九死に一生を得たんですね。

佐藤  そうです。前田高地の戦いで敗れた後、母は首里(しゆり)の攻防戦に加わり、次は摩文仁(まぶに)に下がって徹底抗戦をしたそうです。最後に与えられた指示は、「船かイカダで北部に渡ってゲリラ戦をやれ」というもの。そのときに手榴弾(しゆりゆうだん)を2つ渡されました。

「米兵に捕まると暴行されて、耳と指と鼻を切り落とされる。目だけは最後まで残しておくが、とにかくひどい目にあうから、いざとなったらこれで自決しろ」というわけです。

五木  亡くなった大尉とは、全然いうことが違ったんですね。

佐藤  そうなんです。で、不発だったときに備えて手榴弾を2つ渡された。母が「2つとも不発だったらどうするんですか」と聞いたら、「舌を()め」といわれたそうです。

その後、お姉さんとはぐれた母は、最後は摩文仁にたどり着きました。そこで十数名の日本軍兵士たちと1カ月ぐらい過ごしたんですね。そしてある日、歴史に照らせば昭和20年6月22日の未明なんですが、母が井戸に水を汲くみに行ったら下士官が2人現れた。「牛島(うしじま)司令官と(ちよう)参謀長の当番兵だ」と名乗ったそうです。摩文仁丘(まぶにがおか)の洞窟内の第32軍司令部で割腹自殺した牛島(みつる)司令官と(いさむ)参謀長のことですね。その下士官(当番兵)は、自決する2人に促されて、外に出てきたんですよ。母は彼らに「戦争は終わるぞ」といわれたそうです。

五木  実際、その2人の自決によって、少なくとも組織的戦闘は終結しました。もちろん、その後も局地的な戦闘は続きましたが。

佐藤  母はその後も2、3週間ほどガマ(壕)に籠こもっていました。そこでは兵隊たちと「もし米兵に見つかったら、ここには戻ってくるな。そこで自決するか、逃げるかだ」と約束していたそうです。

ところがある日、自動小銃を持って外に出た若い兵隊が、ぶるぶる震えながら戻ってきちゃったんですよ。その横には米軍の人間がいて、「命は助けます。出てきなさい」と日本語で呼びかけた。

五木  途中で捕まって、ガマまで案内してしまったんですね。

佐藤  母はそこで手榴弾の安全ピンを抜きました。でもそれを叩きつける寸前に、アヤメという名の第24師団の下士官(伍長(ごちよう))がこういって止めたそうです。

「死ぬのは捕虜になってからもできる。ここは生き残るんだ」

母は死ぬまでそのときのことを気にしていました。あの伍長が止めなければ、自分は1秒後に手榴弾を爆発させていた。自決するだけではなく、16人の人たちを巻き添えにして殺してしまっただろう、と。

結果的には死なせていないのに、ずっと自分の行動を悔やんでいましたね。

五木  実際にそうやって命を落とした沖縄人が大勢いるわけですからね。

「国に騙されないために高等教育を受けろ」

佐藤  生き延びた母は、辺野古(へのこ)琉球人(りゆうきゆうじん)収容所に入れられました。米軍は日本人と琉球人を別民族と考えていたので、別々に収容したんです。

そこから出て久米島に戻ったのは1年後でした。すると、そちらでは日本軍が住民を虐殺していたことがわかった。「一体どういうことが起きていたんだ」とわけがわからなくなったそうです。それで「もう一生独身で生きていこう」と思って、看護師学校に通っているあいだにキリスト教の洗礼を受けました。結局は父と知り合って結婚し、本土に出てきたんですけどね。

五木  そうじゃないと、佐藤さんは生まれてませんものね。

佐藤  しかし、ずっと戦争を引きずっている人でした。私には盛んに「高等教育を受けろ」といっていましたね。

五木  それはなぜですか。

佐藤  軍属時代に、東京外国語大学出身の通訳兵がいたそうです。彼が、みんながいないときにこんな話を母にしたんですよ。

「アメリカは鬼畜(きちく)でも何でもない。国際法という法律を守って、女子どもには絶対に危害を加えない。われわれ兵士は最後まで戦わないといけないけれども、あなたは機会を見て必ず捕虜になりなさい。生き残るんです」

だから母はこう考えたんですね。国もマスメディアも国民を騙すけれど、高等教育を受けている人たちは自分で物事を判断できる。だから、息子には高等教育だけは受けさせなければいけない。そういう話でした。

五木  やはり、昭和の戦中を生きた人たちが背負ってるものは重いですね。一人ひとりが、みんな何かしらそういう経験をしている。僕らであっても外地で敗戦を迎えて、それから何年かは本当に大変でした。

佐藤  五木さんがテレビで戦争のお話をされているのを見た父と母が、「この人は本当に苦労してる」といっていました。父はこうもいいました。「お母さんにしてもお父さんにしてもそうだけど、本当に苦労したことはいえないもんなんだよ。いいたくないんだ。思い出したくないから、話せないんだよね」と。

五木  そうだね。自分で忘れようとしますから。お父様は何年のお生まれですか?

佐藤  父は大正14年(1925年)生まれです。深川(ふかがわ)夜学(やがく)の工業学校を出て、東大工学部で実験設備の準備などの下働きをやっていました。

五木  じゃあ、お父様は東京大空襲も経験されたんですね。

佐藤  そうです。あのときは、隣組で掘った防空壕には入らなかったそうです。「絶対に蒸し焼きになるとわかっていたから」といっていました。江戸川のほうに逃げた人たちも大勢いたんですが、父は直観的に反対側へ向かった。それで九死に一生を得たんです。

五木  空襲のときに川に飛び込むのは、かえって危険だったらしい。

佐藤  焼夷弾の油が水面に広がって、火の海になることもあるんですよ。父はそれからすぐに召集令状を受け取って、兵庫県の丹波篠山に行きました。そこで支給された軍服が冬服だったので「南方には行かされないな」とホッとしたそうです。実際、もう南方には渡れない状態だったんですけどね。

それから、中国の南京(なんきん)に行った父は、航空隊に配置されて無線機の修理をやりました。もともと技師だったのです。「ラジオが壊れたから来い」と将校に呼ばれて修理したときに、「この戦争は勝てないんじゃないか」と思ったそうです。というのも、中国の電圧は220ボルトなのに、100ボルトの日本製ラジオをそのままコンセントにつないだせいで、ヒューズが飛ぶことがしばしば起こったんですって。こんな基本的なことも知らない奴らが指揮しているようじゃ、戦争に勝てるわけがないというわけです。半日かけて修理したら「通信兵、ご苦労であった」とかいわれて、砂糖と小豆(あずき)をくれたから、汁粉(しるこ)をつくってみんなで食べたそうです。

五木  ちょっと笑ってしまうけど、まあ、笑い事じゃありませんよね。

この記事は幻冬舎plusからの転載です。
連載:一寸先は闇
五木寛之,佐藤優

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