人気を博しているアナログゲーム、「はぁって言うゲーム」を生み出したのは、伝説の落ちゲー「ぷよぷよ」を生み出したクリエーター、米光一成さんだ。天才的発想をし続ける、米光さんの頭の中を知るコラム。
たかがゲーム、されどゲーム
1991年、広島のゲーム会社コンパイル。
ぼくは、コンピュータゲームを作っていた。ディレクターだ。
タイトルは「ひとひと」。
グミのような人型が落ちてくる。それを操作して並べて消していく。テトリスからはじまる「落ちゲー」の系譜だ。
この「ひとひと」が、制作過程で「ぷよぷよ」に変身する。今回は、その話。
人型のピースは次々と降ってくる。プレイヤーはその人型を操作して着地させる。
同じ色が並ぶとつながる。同色なら上下で肩車をして、左右で手をつなぐ。
だから、ぼくは制作メンバーに何度も繰り返してきた。
「これは、ただの落ちゲーじゃない。人と人が結びつき、つながる、絆のゲームだ。テーマは、人類愛だ」と。
「たかがゲームなのに大げさな!」ということ込みで、半分冗談で。
だが言うときは真剣にまじめに。
「されどゲームだ」という心意気で語った。
ゲームはエンタテインメントだ。あまり真面目になりすぎて、スキマがないキツキツの状態になると「楽しさ」が生まれない。「たかがゲームだ」というスピリッツは大事。
だが、「されどゲームだ」という心意気も同時に持っていなければ、良いゲームは作れない。
だからこそ、リーダーは、社会的意義を語るべきだ。
これは、どんなプロジェクトでも同じだ。社会的意義を根底に据えれば、プロジェクトの芯がぶれない。
社会的意義なしで、目標設定するのは危ない
何しろゲームづくりは、むずかしい。当時のゲーム制作は少人数で、しかも開発室に引きこもって作っていた。だから、視野が狭くなりがちだ。
「こうすれば売れるぞ」とか「これでやめられなくなる」とか、射幸心やら怠惰な欲望に訴えかけるゲームに、ちょっと油断すると堕してしまう。
たくさんの人に遊んでほしいから「売れたい」。だが、「売れたい」を目標にしてしまうと、悪の手に染まってしまうこともある。そうすると結果として「売れない」のだ。
アクセス量だけを指標にするKPIとか、えげつないガチャだとか、売れたやつのパクりだとか、もうそれはゲームじゃないじゃないか。
社会的意義なしで、売上目標とか期間目標を決めると危ないのだ。「リリース日が近づいたからとにかく完成したことにしてリリースしよう」とか「売上達成するために何だってやるぞ」っていう集団自殺に向かってプロジェクトが変容していく。
「コブラ効果」(Cobra effect)というやつだ。
毒蛇のコブラの害がひどいので、コブラの死骸を役所に持ち込むと報酬を出すことにした。そうすると、儲けるために、コブラの飼育を初める者たちが出てきたのだ。コブラを減らすための方策が、コブラを増やすことになってしまう。
そうならないためにも、「社会的意義」が必要だ。
「どうすれば売れるだろうか」「どうすればもっと面白くなるだろうか」「どうすれば注目されるだろうか」と考えることは大切だ。だが、最後には、ピュアで、抽象的な目標設定として「社会的意義」に立ち返る。
これが、知らない間に「あこぎな手」に染まらぬ命綱になる。
「テーマは人類愛だ」と、いつものように言ったときに、プログラマーがふとこう返した。
「同じ肌の色しか、手をつながないんですね」
「……」
人型をやめて「ぷよ」というモンスターが降ってくるゲームにした。
こうして「ひとひと」は、「ぷよぷよ」というタイトルになった。
「人類愛ってテーマはやめたが、でも人類愛のために作ろうな」と言うようになった。
ぷよぷよ(初代)とは
1991年に発売された落ち物パズルゲーム。米光一成ディレクション。
MSX2(コンピュータ)とファミコンディスクシステム版で登場した。
開発は、広島のゲーム会社コンパイル。販売は徳間書店インターメディア。
落ちてくる「ぷよ」を操作して、同色をつなげて消していく落ち物パズルゲーム。
その後、続編や移植版が多数リリースされる。
シリーズ累計販売本数約2,700万本を記録し、いまでも愛されるゲームである。