女優・大竹しのぶによる朝日新聞人気連載を書籍化したエッセイ「母との食卓 まあいいか3」。新生活がスタートした今、日常の些細なことに宿る大切なことを思い起こさせ、元気をくれるエッセイ3本を本書から一部抜粋してお届けする。2本目は女優・宮沢りえから贈られたピンクのカードケースと、舞台上での秘密の時間について。※初出は朝日新聞夕刊 連載「まあいいか」2017年9月1日〜2021年3月19日付け
#1
大事すぎて、大切すぎて
息子が私の還暦のお祝いに、大枚をはたいて買ってくれたであろう赤いお財布。嬉しくて、嬉しくて、すぐには使えず2年間も飾っていた。
時々「今日こそおろして使ってみようか」と決心するものの、大切なこのお財布を汚したらどうしようと思い、彼の父親の写真や、娘の成人式の写真が飾ってある場所にまた戻すということを数回繰り返してきた。
そして今日やっぱり、また元の場所に戻してしまった。「使わなくちゃ意味ないじゃん」と息子。
もう一つ同じように使えなかった可愛いピンクのカードケース。これは女優の宮沢りえちゃんから、1年前に頂いたものだ。
昨年9月、母を亡くした月、私は舞台に立っていた。亡くなった日も、お通夜である前夜祭の日も、お別れの日も。想像以上にしんどく、苦しい日々が続いていたある日。芝居を観に来てくれたりえちゃんが、母のことには触れずに、楽屋で手渡してくれたプレゼント。
「元気が出るビタミンカラーを選んでみました」と一言。私たちは何も言わずに抱き合った。5年前、りえちゃんのお母様が亡くなった時、私たちは一緒に舞台に立っていた。稽古中はずっと看病もあっただろう、一人でまだ幼いお嬢さんを抱えて、どんなに不安だっただろうか。私は何も分かっていなかった。
そして幕が開き、お母様との別れがあった日も彼女は堂々と舞台に立ち、芝居をしていた。ラスト近くでのシーン、舞台上で私たち二人だけでほんの何秒かの暗転がある。私はりえちゃんの手をギュッと握りしめる、彼女はその私の手をギュッと握り返す。二人だけにわかるやりとり。「どんなことがあっても、良い芝居をしようね。頑張れりえちゃん」「はい、頑張ります」。それは千秋楽まで続いた私たちだけの秘密の時間だった。
わかり合えたと思っていたのだが、実際にその時の彼女と同じ立場になって私は、彼女の苦しみや悲しみを初めて理解することができた。あんな風に手を繋いでいても、その悲しみの10分の1も理解してあげてなかったことがわかった。そんなりえちゃんからのプレゼント。
あれから1年が過ぎ、やっと使えるようになったビタミンカラー。その度に、あの時の手のぬくもりを思い出すのはいうまでもない。あ、そう言えば私が海外のお土産に買ってきたお財布、母も使わずしまい込んでいた。
今も残っているピカピカのお財布。
「使わないと意味ないよ」
息子と同じことを言っていたのを思い出す。
Shinobu Otake
1957年東京都生まれ。1973年「ボクは女学生」の一般公募でドラマ出演。1975年映画「青春の門-筑豊編-」ヒロイン役で本格的デビュー。その鮮烈さは天性の演技力と称賛され、同年、連続テレビ小説「水色の時」に出演し、国民的ヒロインとなる。以降、気鋭の舞台演出家、映画監督の作品には欠かせない女優として活躍。2011年紫綬褒章を受章。2021年東京2020オリンピック閉会式に出演。2023年4月22日に前編、4月29日に後編が放送されるドラマ「犬神家の一族」(NHK)に出演。4月9日からは主演ミュージカル「GYPSY」がスタート。また6〜7月頃には一人芝居「ヴィクトリア」が上演される。