短期集中連載「安藤忠雄が走る理由」。第3回となる今回は、ゲーテ2012年5月号より当時71歳の安藤忠雄特集の内容を蔵出し。世界のANDOと言われる建築家の安藤忠雄は、いかにしてその不屈の生命力を備えたのか。その生い立ちを紐解く。
闘う建築家、安藤忠雄
日本人の、人としてのスケールが小さくなった、といわれて久しい。確かに破天荒な生き様なんて、すっかり聞かれなくなってしまった。そんななか、安藤さんは相変わらず型破りだ。世界的な著名人や各国の大きな公共施設から依頼が殺到。常時50もの建造物に挑み、また実にリアルな社会貢献活動にも飛びまわる。
圧倒的な建築、尋常ならざるバイタリティ、大胆な発言。その安藤さんが「このままじゃ日本は沈没する」と声を大にして言う。閉塞感が蔓延するこの時代、どうしても元気なく、内向的になってしまうが、ではどう道を切り開いていけばいいのか。密着すること3ヵ月、その答えを探りつつ、世界のANDOの情熱、闘争心、決断力から、人を巻き込んでいく方法や忘れがたい人物との交流までも浮き彫りにした。その仕事術のポイントは、やはり通常の思考回路とは違う大胆な発想転換と実現力にある。それは明日からの我々の大きなヒントになるはずだ。
祖母の教育方針により自立心と気概を学ぶ
1941年、貿易商の家で双子の兄として誕生した安藤忠雄さん。母がひとり娘で、嫁ぐ前の条件により、母方の祖父母の家に養子として預けられて幼少期を大阪市旭区で過ごす。小学校に入ると祖父が他界し、祖母とふたりの生活に。小学時代は喧嘩っ早くいわゆるガキ大将、勉強の成績はまったくもってよくなかったという。祖母は商売をしていたこともあって放任主義。しかし「約束を守れ、時間を守れ、嘘をつくな、言い訳をするな」と躾には非常に厳しかった。
扁桃腺炎で初めて手術を受けることになった時のこと、祖母は同行せず、「私が付き添っても痛さはおんなじ。これからも誰も助けてくれんよ」と言いはなった。その頃から、自分の危機を自分の責任で自分の力で解決していくという覚悟、自立心を自然と身につけていく。
中学生でも勉強はダメ。建築の設計に必要な数学を除くと、美術の成績もよくはなかった。ただ、魚釣りやトンボ捕りなど野外体験で、仲間との対話を学びとるようになる。
そして、建築家になりたいと思うきっかけが訪れる。鉄工所や木工所などが点在し、職人たちのものづくりの現場を間近に見られる環境のなかで、中学二年の時、自宅を下宿屋にする増築のために若い大工の手伝いをする機会があった。屋根に穴を開けると、一筋の光が降りそそぎ、真っ青な空が見え、それがとても印象的だった。安藤さんはそのシーンを今でも忘れないという。また、昼食時間も取らずに黙々と働く大工たちと過ごすことで、仕事が好きというのは、こういうことかと実感する。
工業系の高校に進学。そこでも成績は芳しくない。双子の弟がプロボクサーのライセンスを取得したことを知り、自分も稼げるのではないか、海外に行けるのではないかと思い、ボクシングジムに通ってライセンスを取得する。プロの試合を経験し、タイにもひとりで遠征に行くが、その後、能力的な限界を感じ、ボクサーの道は1年半で終わりを告げることに。それは高校卒業の直前のことであった。
祖母に迷惑をかけまいと、大学は行かず、独学で建築を学んでいくことを決意。京都大学や大阪大学に合格した友人らに頼んで授業で使う教科書を購入し、彼らが4年間で勉強するものを1年間で読破しようと考え、朝9時から明け方の4時まで必死に教科書にかじりついた。
22歳の頃には、日本全国の名建築を見てまわる。日本の丹下健三建築のモダニズムの造形と、自然と一体化した古民家の素朴な佇まい、この正反対の建築に同時に惹かれていく。次の年には海外旅行が自由化されたのを機に、アルバイトで貯めた全財産で西洋建築の視察の旅へ。この時、「お金は懐に蓄えたらあかん。自分の身体にきちんと生かして使ってこそ価値がある」との祖母の言葉が、安藤青年に託されたのだった。
建築書で知っている単なる知識と、自分自身が体験することではまるっきり意味が違う、と語るように、この旅は大きな意義を持つ。念願のル・コルビュジェをはじめ、古今のヨーロッパの建築をつぶさに見てまわり、実際に見た建築の何がよかったか、次の目的地の建築まで歩きながらずっと考えた。そして旅の終盤、立ち寄ったインドでは「人生とはどうせどちらに転んでもたいした違いはない。だからこそ闘いつづけ、自分の目指すこと、信じることを貫きとおせばいい」という信念を持つにいたる。この時悟った闘う信念が、後の作品を通して、日本のみならず世界中の人の心に刺さることになっていく。
仕事は待つのではなく、自らつくるもの
28歳の頃、梅田に自身の事務所を設立。最初は仕事などまったくなかった。コンペに挑戦しても仕事にはつながらなかったが落胆することなく、空地があれば頼まれてもいないのに持ち主に設計プランをプレゼン。もちろん連戦連敗が続くが、それでも諦めずに続けることによって、徐々に小さな住宅の依頼が来るようになる。「仕事は待つのではなく、自らつくるもの。不安のなかで生まれる緊張感があるからこそ、自分で切り開こうと強くなる」ということを身をもって学ぶ。
’76年、実質的なデビュー作となる「住吉の長屋」が完成した。三軒長屋の中央を切りぬき、コンクリートの箱を挿入したシンプルな構成。狭い住空間の中に、ひとつの宇宙をつくりだそうという試みは、利便性の追求が大前提だった住宅建築の流れに反するもので、当時の建築界を震撼させた。
小さな個人住宅からキャリアをスタートさせた安藤さんだが、その後はさまざまな商業施設や集合住宅を手がけ、また、寺院や教会なども設計。1978年、アメリカ10都市を巡回したグループ展「日本建築の新しい波」展で、槇文彦、磯崎新ら10組のうちのひとりに選ばれる。この頃から海外でもANDOの名前は徐々に知られていく。
ついには、’78年のイエール大学客員教授就任を皮切りにハーバード大学客員教授、’97年には東京大学教授(現在は特別栄誉教授)に就任。ドイツやイタリアなど海外からのオファーが続々と舞いこむ。また、’95年には建築界のノーベル賞ともいわれるプリツカー賞を受賞、その後も建築界のありとあらゆる賞を受賞する。
現在は大阪を拠点としながら、国内はもとより、欧米やアジアに人が集まり文化を楽しむ場、独創的な建築をつくり続け、多くの人を魅了する。また、世界を駆けめぐる一方、建築家という枠を超え、都市計画・再生、社会貢献など、さまざまな分野で活動。また著作や講演会で自身の生き方、人間のあるべき姿を説いてまわり、建築にあまり興味を持たない人たちからも熱い視線を集める。
そんな建築家・安藤忠雄はこう語る。
「たとえ一流大学、一流企業でなくても夢は持つことができる。チャンスを逃さないために、連敗してもエネルギーを溜めていかねばならない。毎日、真剣勝負で努力を怠らず無我夢中で仕事と向き合わねばならない。そして貪欲に挑戦しつづけていかなくてはならない。自分の夢をどうつくっていくかは自分自身にかかっている」
学歴社会、縦割り社会に風穴を開け、あらゆる既成概念に常に挑戦し、突破しながら世界的に認められる建築家となった安藤さん。類まれな不屈の生命力をもって、自分を取り巻く周囲に怒り、世界のANDOは今日もあらゆる国の戦場で闘いつづけている。
Tadao Ando
1941年大阪府生まれ。独学で建築を学び、’69年に安藤忠雄建築研究所を設立。世界的建築家に。現在、世界中で進行中のプロジェクトは50を超える。プリツカー賞、文化勲章をはじめ受賞歴多数。