2021年のシーズンを最後に現役を引退した阿部勇樹。彼は輝かしい経歴の持ち主だが、自らは「僕は特別なものを持った選手じゃないから」と語る。だからこそ、「指揮官やチームメイトをはじめとした人々との出会いが貴重だった」と。誰と出会ったかということ以上に、その出会いにより、何を学び、どのような糧を得られたのか? それがキャリアを左右する。今回は、2020年11月から12月にかけて連載されたミハイロ・ペトロヴィッチ編をまとめてお届けする。【阿部勇樹 〜一期一会、僕を形作った人たち~】
30歳で、レスターから浦和レッズへ移籍を決断した理由とは
2012年1月、僕はイングランドのレスターから、浦和レッズへ移籍した。1年半前に所属していたクラブだが、「戻る」というよりは、「移籍加入」という新たな気持ちだった。
海外で過ごした時間は決して長いわけではない。けれど、非常に充実した時間を過ごせた。海外で暮らすという新鮮さや刺激は、ひとりのサッカー選手としてだけでなく、僕の人生においても貴重な機会だったと思う。
サッカーの母国といわれる国で、プレーできる、挑戦できる幸せ。それを支えてくれる家族の存在。いろいろな気づきがあった。
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挑戦欲を再認識したミシャとの出会いについて
ミハイロ・ペトロヴィッチ監督のことを選手たちはみな「ミシャ」と愛称で呼ぶ。このことからも、監督と選手たちの間柄は容易に想像できるだろう。ミシャはいつもチームのことを「ファミリー」と表現し、選手はもちろん、スタッフにも気を配る父親のような人だ。
セルビア(旧ユーゴスラビア)出身のミシャは、オーストリアのSKシュトルム・グラーツで現役を引退後、イビチャ・オシムさんのもとで2シーズン、アシスタント・コーチとして仕事をしている。2006年彼がサンフレッチェ広島の監督に就任後、2012、2013シーズン連覇を果たす広島の土台を作った。
2012年、僕が移籍加入した浦和レッズは、ミシャをともに新たなスタートを切った。
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今でも悔やむ! ミシャと優勝できなかったこと
2017年夏、ミシャ(ミハイロ・ペトロヴィッチ)が、浦和レッズから去った。
成績不振がその原因だ。
ピッチでプレーするのは選手自身だが、その結果の責任を取るのはいつも監督ということになる。どんな時も、成績不振で監督がチームを去る時、その原因を作った自分を責める。表向きには監督が責任をとってはいるものの、僕ら選手も十分、その責任を感じている。
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ミシャが僕らに示してくれた大事なこと
2012年シーズン。浦和レッズに加入した僕は、監督に就任したばかりのミシャ(ミハイロ・ペトロヴィッチ)から、キャプテンに指名された。
前シーズン、残留争いに巻き込まれるほど、成績が悪化したレッズ。僕はみんなが同じ方向を見ているかという部分が足りないなという印象を抱いていた。だからといって、「みんなでまとまろう」と声をあげたりはしなかった。そんな言葉でどうにかできるのであれば、誰かがやっているはずだから。
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