まだまだ先行きが見えない日々のなかでアスリートはどんな思考を抱き、行動しているのだろうか。本連載「コロナ禍のアスリート」では、スポーツ界に暮らす人物の挑戦や舞台裏の姿を追う。
かつては日本選手権にも出場
午前1時に起床し、ジムへ向かって汗を流す。その後、クルマで青森の弘前から秋田まで片道60キロ以上の道を進み、午前10時から拠点のプールで黙々とひとりで練習する。午後は弘前に戻って自身が立ち上げた水泳教室で普及活動に励み、夕食を午後3時に摂って夕方5時に就寝。今年3月に34歳となったプロスイマーの樋口 遼はそんな毎日を過ごしている。
10年以上前のこと。北島康介や松田丈志らが全盛期の日本選手権に出場し、自由形50mで世界を目指した。肩の怪我もあり残念ながら日本のトップの座にはたどり着けなかったが、誰よりも水泳を愛しているとの自負もあり、競技は続けた。そして、たどり着いた目標は「生涯現役」。5歳区分で大会が開かれ、自分の能力に応じて競技を楽しむことができるマスターズに照準を絞り、プロとして活動する道を選んだ。2019年から本格的にプロとして活動し、同年8月に韓国で開催された世界マスターズに初出場。来年、福岡で開催される世界マスターズで、自身2度目の世界一となるため、日々トレーニングに励んでいる。
日雇い労働も経験
思えば、激動の人生を歩んできた。中学校までは野球少年だったが「とにかくセンスがなかったので練習試合は2回しか出場できなかった……」という。高校から得意だった水泳を始め、持ち前の身体能力もあって高2で初めて東北大会に出場。高3春の県大会で初優勝を飾ると、青森県最高記録をマークして、ジュニアオリンピックにも出場した。しかし、結果は19位。「完全に浮かれていて、練習も不真面目だった」と当時を振り返った。
ここから、樋口の水泳人生、いや人生そのものが低迷期に入ることになる。青森の短大に進んで水泳を続け、国体にも出場したが、怪我もあって引退。一度は上京してある大学の練習に参加したが、人間関係がうまくいかずに再び引退。就職も決まらず日雇い労働のアルバイトの日々で、2年あまりほぼ無職の状態が続いた。しかし、そんな時に自分を救ってくれたのはやはり水泳だった。2008年に開かれた北京五輪をテレビ観戦。かつて同じ大会にも出場した北島康介が金メダルを獲得。「また水泳やりたいな」。一度きりの人生、このままでは駄目だと思い、一念発起。地元に戻って短大時代のコーチに相談し、死に物狂いでトレーニングを重ね、日本選手権の参加標準記録を突破。全国大会の常連選手にまで上り詰めたのだった。
世界の舞台にはたどり着けなかったが、水泳を子供に教えたいという思いから、2014年に弘前に自分のスイムチームを設立。一方、プロスイマーとして活動するため、企画書を一から作り、地元の企業などにアポを取ってプレゼンをする日々を過ごす。100社以上に連絡し、現在では17社ほどから商品提供を含めた協力を得ている。
「とにかくもう自分から積極的に動きました。まずは気になった商品を自分で購入して利用し、企業様に感想を言って"ぜひサポートしてもらいたいです"と伝えるところからスタート。やっぱり企業側の立場もしっかり考えてからアタックするようにしています」
樋口を突き動かすものは一体なにが源泉となっているのだろうか。
「やっぱり小さいころから何をやっても中途半端な、だらしない人間だった。だから大人になって、やるならとことんトップを目指し、一番になりたいという気持ちが強いですね。アマチュア選手が集まるマスターズでも、その思いは同じ。生涯現役を目標にしている。いけるところまでって感じです。あとは背負っているものがある。自分を目標にして頑張っている子供たちもいるし、コロナの状況のなかでも応援してくれる企業様もいます。そんな方々に少しでも恩返しができればなって、今頑張っています」
そして無理だとはわかっていても、もう一度たどり着きたい舞台がある。
「参加標準記録が最近さらに上がってしまって厳しいとは思うんですけど、やっぱりあと一回は日本選手権に出場したい。実は去年の10月に左肩の骨挫傷になって今もまだ違和感があるのですが、それでも筋力は徐々に戻ってきています。年齢は重ねていますが、とにかくタイムを落とさずに現状を維持して、ベストを更新して、目標に近づきたい」
一度きりの人生を水泳に捧げることを誓った熱狂人。生涯現役のスイマーの闘いは死ぬまで続く。