本田圭佑は、言葉を使うことで、自らをインスパイアし、世界にサプライズを起こす。その脳にはどんな言葉が隠されているのだろうか。
すべての人の幸せを願い、サッカーに打ち込む
2018年のロシアW杯が終わったあと、“引退”の2文字も頭にちらついていた。若いころは、絶頂期にやめるのが自分の美学にあっていると思っていた。
W杯で優勝して、その大会を最後に引退しよう。だが、その夢がかなわなかった時、僕のなかには「もっとサッカーをやりたい」という気持ちが芽生えてきた。悪あがきかもしれない。でもまだ伸びると自分を信じる気持ちを捨てきることができなかった。だからこそ目指したのが2020年の東京オリンピックだった。
コロナ禍でオリンピックが延期となった時、僕は本当のことを言うと「助かった」と思った。この1年ほどは十分なアピールができないままだったからだ。あのままであれば、僕が五輪代表に選ばれることはなかっただろう。
サッカーに限らず、すべての五輪競技の選手が2020年の夏に向けて、まさに命がけ、ギリギリの調整を続けてきたことは理解している。彼らには申し訳なく思うのだが、僕の正直な気持ちを言うならば「1年の猶予をもらった」というものだった。
しかし、じゃあ来年オリンピックが開催できるのかと言われたら今は疑問を抱かずにいられない。そもそもスポーツとは、娯楽であるべきだ。生命の危機と天秤にかけてまで開催すべきではないし、そんな大会を開催したところで誰も心から楽しむことはできないだろう。
僕が現在いるブラジルでは、毎日数万人の新規感染者が発生している(7月7日時点)。それでもリオ・デ・ジャネイロではサッカーの試合が再開された。選手としては複雑な気持ちだ。もちろん身体は元気なので試合をやりたいという気持ちはある。気をつけてさえいれば感染する可能性は小さいだろう。だが、“万が一”がないわけではない。
もし選手が感染してしまった場合、特別扱いで治療してもらえるのかもしれないが、そのぶん貧困層の人のための医療リソースを使ってしまうことになる。
誰のためにサッカーをするのか、その意味が見いだせなかった。それでもチームがいったんやると決めた以上、自分だけがボイコットするわけにもいかない。僕も腹をくくって出場することになった。人生で初めての、意にそわない“任務”としてのサッカー。実際に試合が始まれば、コロナのことなんて忘れてしまう。勝利を目指して必死にプレイするのは以前とまったく同じだ。
強行再開の是非が問われるなか、本田は試合に先発出場を続けている。
自分がプレイすることで、ひとりでもいいから元気になってくれることを信じてボールを追いかけるだけだ。世界が、ブラジルが少しでも早く本来の姿に戻ってくれることを望み続けることしか今の僕にはできない。
今、僕は来年のオリンピックのことはまったく考えることができずにいる。ボタフォゴというチームの一員として最高のパフォーマンスをすることだけが今の目標だ。その先に五輪があれば嬉しい。誰もが不安なく楽しめ、任務ではないサッカーをできる場所に立つことができれば、本当に幸せだと思う。