自動車ジャーナリスト・サトータケシが、クルマ好きなら知っておくべき自動車トレンドの最前線を追いかける本連載。今回は、新型トヨタ・クラウンが大変身した背景を考察する。【過去の連載記事】
ここまで大胆にデザインを変えられた理由
2022年7月15日に発表された16代目となるトヨタの新型クラウンが、大きな話題となっている。最初に販売されるクロスオーバーのデザインが従来型とはかけ離れていることや、これから1年半の間にあと3つのスタイルを発表、計4種類のクラウンを展開するというプランが驚きをもたらしたのだ。ここでは、クラウンが大変身した理由や背景を考察してみたい。
まずデザインがどれくらい変わったのかは、15代目と16代目を並べてみるとよ〜くわかる。
「なんでこんなに変わっちゃったの!?」と、新型クラウンをじっと見つめて問い詰めても、答えは返ってこない。ここは、一度クラウンから視線を外して、世の中を見てみたい。
「いつかはクラウン」というキャッチコピーが生まれたのは、1983年に7代目クラウンが登場したとき。あの頃、朝のターミナル駅で見かけるビジネスパーソンは、ほぼ100%がスーツ姿でネクタイを締めていたはずだ。会社帰りには同僚と焼き鳥屋、週末には取引先とゴルフ場、というのが典型的な行動パターンで、そういう人たちに「いつかはクラウン」というフレーズは刺さった。
けれどもいま、総理大臣がカメラの前に立つときでもノータイのことがあるし、ジャケパンでの通勤はあたりまえ。スティーブ・ジョブズみたいにジーンズととっくりのセーターという出で立ちのエグゼクティブだっている。ハイブランドだって、ストリートファッションの影響を強く受けている。そもそもリモートワークで会社に行く機会も激減した。
また、「ウチの部長は朝イチでサーフィンしてから出社する」なんてのもザラだし、ここ最近でもランニングブームやソロキャンプブームなど、さまざまなアクティビティが人気を集めた。
といった感じで人々の生活スタイルや装いがカジュアルかつスポーティになるにつれ、街で見かけるSUVが輝いて見えるようになる。同時に、4ドアセダンがファミリーカーとして使われるケースはがくんと少なくなった。
「いつかはクラウン」の頃から世の中が大きく変わったことをアタマに入れてから、もう一度新しいクラウンの姿を眺めると、そりゃあクルマだってこれくらい変わって当然だよね、ということになる。
ではなぜ、世の中が変化しているのに、今までクラウンは変わらなかったのか? 新型を見た知り合いの自動車カメラマンが、「ついに、いままでの太客や岩盤支持層を切ったのかな?」とボソッとつぶやいて、もちろんトヨタはそうは言わないけれど、それもあるのではないかと感じる。
2022年の今、いわゆる団塊の世代は75歳にさしかかっている。人生100年時代とはいうけれど、さすがに新車を買ってがんがん乗り回すのはこの年代が上限ではないだろうか。団塊の世代は、ブレザーやオックスフォードのボタンダウンシャツを着て、ビートルズやストーンズを聴いて育った世代だ。超ざっくり言えば現代のユースカルチャーと地続きで、サーフィンとかパンクロックとか、新しいモノやカルチャーに積極的にふれてきた人々だ。
だから、いつまでも若々しくてオープンマインドの団塊の世代を購買層の上限だと考えることで、大胆に変身できたのではないか、と推察する。
世界的潮流と4車種展開
次の疑問。クロスオーバー、スポーツ、セダン、エステートと、4つのスタイルを展開する理由はなにか?
これはもう簡単で、ライフスタイルの多様化に対応する多車種展開は世界的な潮流だ。たとえば、メルセデス・ベンツのEクラスを見てみよう。普通のセダン、4ドアクーペ、2ドアクーペ、ステーションワゴン、オールテレインと呼ぶワゴンとSUVのクロスオーバー、GLEというSUV、GLEクーペというスタイリッシュなSUV、それにカブリオレまでラインナップする。
だからクラウンに4つのスタイルがあることはそんなに大騒ぎすることではなく、むしろあたりまえ。もしかすると、オープンとかクーペとか、まだまだ増殖する可能性だってあるかもしれない。
初代クラウンのリベンジ
最後にふれておきたいのが、いままで基本的には国内専用車種だったクラウンをグローバルに展開する理由だ。これは、トヨタ自動車の戦略であるとともに、豊田家の物語でもある。
第二次大戦後、日本の自動車メーカーは大きくふたつにわかれた。ひとつは、欧州メーカーのノックダウン生産を行うことで技術力の向上を目指した企業で、日野がルノー公団、日産がオースチン、いすゞが英国ルーツ・グループ(ヒルマン)と提携した。
一方、独力での自社開発にこだわったのがトヨタとプリンスだった。
豊田自動織機製作所を立ち上げた“発明王”豊田佐吉は、長男の喜一郎に自動車開発の研究を命じ、早くも1937年にはAA型と呼ばれる乗用車を送り出している。
そして喜一郎が世界進出を目指して開発したのが、1955年に登場したトヨペット・クラウンだった。1957年にはトヨタ初の対米輸出車両として海を渡ったが、その時点ではアメリカ市場が求める性能には届かず、残念ながら成功を収めることはかなわなかった。
あれから67年──。新型クラウンの発表会で豊田章男社長は、クラウンという車名は喜一郎が命名したことを明らかにしている。ご存知のように、喜一郎の長男が1980年代にトヨタの社長を務めた豊田章一郎で、章一郎の長男が現在の章男社長だ。
今回の大変身を見て、「クラウンという名称を変えたほうがイメージを刷新できるのでは?」という声もあった。けれども、クラウンで世界に出ることは、祖父の喜一郎の代からの豊田家の悲願なのだ。
「いつかはクラウン」のほかにも、くじらクラウンとかZEROクラウンなど、歴代クラウンはさまざまなキャッチフレーズやニックネームで親しまれてきた。もし新型にニックネームをつけることを許されるなら、“じっちゃんの名にかけてクラウン”と呼びたい。
Takeshi Sato
1966年生まれ。自動車文化誌『NAVI』で副編集長を務めた後に独立。現在はフリーランスのライター、編集者として活動している。