ド派手なルックスと徹底した従業員ファーストの経営で、全国から視察が絶えないという坂口捺染社長、坂口輝光氏。2020年から数年間続いたコロナ禍では受注が激減したものの、早々にV字回復を達成。リスクをチャンスに変えた坂口氏の経営手腕に迫る。【その他の記事はこちら】

「従業員全員の給与をボーナス含めて3年間保証」を宣言
坂口輝光氏の社長就任から6年後の2020年、世界は新型コロナウイルスのパンデミックに見舞われた。日本では同年4月7日に初となる緊急事態宣言が発令され、外出の自粛や学校休業、施設の使用制限、イベントの中止など、さまざまな対策がとられることに。これは、イベントや学校行事、テーマパーク関連の受注が多かった坂口捺染にとって、大きな打撃になった。
3月に第三工場が完成したばかりというタイミングで、受注はほぼストップ。既存事業の売り上げは前年90%減まで落ち込んだ。そんななかまず坂口氏がとったのは、「従業員を安心させるための行動」だったという。
従業員を集め、自分の全財産を会社に寄付し、その資金で従業員全員の給与をボーナス分含めて3年間保証すること、自分は給与をとらないこと、そして、コロナ終焉以降に従業員が戻る場所を確保すべく、プリント業以外の仕事もなんでも受け、会社を存続させるつもりだと告げたのだ。そして、早速プリント業以外の仕事を開拓。それは、感染予防のためのマスクの検品作業と防護服の製作だった。
「プリント業で官公庁ともつながっていたので、防護服製作やマスク検品業務を民間に発注するという情報は早めに入手していました。みんながやりたがらない仕事だったけれど、会社が生き残るためにと考え、率先して手を挙げたんです。周囲には、コロナで失業した人や働く場を失った人がたくさんいたので、その人達にも声をかけ700人くらいに働いてもらったんじゃないかな。正直単価は安かったけれど、みんなにお給料が払えたし、会社にも利益が残りましたね」

1982年岐阜県生まれ。岐阜商業高等学校卒業後、単身アメリカに留学。パサデナシティカレッジ卒業後に帰国し、2004年、家業である坂口捺染に入社。2010年に専務、2014年に社長に就任。ラジオ『T.W.R presents ゆっこ学園 Tell me tours ~輝光との旅~』(ぎふチャン)のパーソナリティも務める。
臨機応変な事業転換でコロナ禍を成長の機会に
その事業が軌道に乗り、半年後にはコロナ禍以前の売り上げを凌ぐまでに成長。ここが勝負どころだと読んだ坂口氏は、実質無利子・無担保で行われた政府系金融機関によるコロナ関連融資制度を利用。3億8000万円を調達し、2021年に第四倉庫、22年に第五工場を新設するなど事業を拡大していく。
コロナ禍で先が見通せないなか積極的な策に出たわけだが、「不安はまったくなかった」と坂口氏は振り返る。
「仕事を必要としている人がいるんだから、雇用を生み出そう。そのためには借り入れをして、事業を拡大する必要がある。そんな風に、やるべきことが頭に浮かび、その先どうすれば実現できるかが鮮明に描けたんですよ。我流だけどコンサルの経験もあるし、数字には強い方だから、事業計画は綿密に練りましたね。融資は3年間返済を免除されていたんですが、ウチは最初から3年間で完済することを考えていました。3年後、他の企業がようやく返済を始める頃に借金ゼロになっていたら、より積極的に仕掛けられますからね。実際、3億8000万円の借入は3年で返しました」
「大事なのは人と人とのつながり」「人が好き」「従業員の笑顔のために」。そんな言葉を何度となく口にする坂口氏だが、入社当時は年間売り上げ5000万円、従業員数15人だった坂口捺染を、2025年度の売り上げ予想11億円超え、従業員数250名以上にまで押し上げたのは、そうした“想い”の強さだけではない。事業拡大につながる人脈づくりやネットワークの構築、緻密な事業計画、的確なタイミングを読む嗅覚、そして、リスクを恐れず大胆に攻める胆力が備わっているからに他ならない。

さらに、コロナ禍は坂口氏に新たな気づきをもたらした。「自分が行動を起こすことで、従業員以外の人達を笑顔にできる」ということだ。2021年、自社ブランド「TWR」を立ち上げ、従業員をはじめ近隣の子供たちの“放課後の居場所”として社内に駄菓子屋をオープン。本社周囲に特別支援学校や高齢者施設が多かったこともあり、障がい者や高齢者を積極的に採用し、2024年には、近隣住民が憩えるカフェやオリジナルグッズを販売するショップを備えた複合施設も新設した。
社内から地域へ。笑顔にしたいと思うターゲットがますます広がった坂口氏は、新たな取り組みに次々と挑んでいる。最終回は、坂口氏の“今”にスポットを当てる。


