サッカー日本代表の名波浩コーチは、森保ジャパンで主に攻撃面の戦術を担当する。日本が初出場した1998年W杯フランス大会で10番を背負い、日の丸への想いは人一倍強い。敬愛を込めて森保一監督を“ボス”“ポイチさん”と呼び、2026年夏のW杯北中米大会で優勝を目指すチームを支えている。

森保監督への恩義を胸に
ポンコツなわけがない。
W杯北中米大会のアジア最終予選は10試合で30得点。圧倒的な攻撃力を誇り3試合を残して世界最速で本大会切符を手にした。
歴代最強とも称されるチームで攻撃の戦術を担当するのが名波浩だ。2023年1月の就任から約2年8ヵ月で、さまざまな攻撃の形をチームに落とし込んできた。予選を圧倒的な強さで勝ち抜いた影の立役者だが、自己採点は極めて厳しい。
就任後の活動を振り返り「僕自身がポンコツなのが一番印象に残っています。点が取れない試合があったり、攻撃がスムーズにいかない時があるのは全て僕の責任だと思う。監督に任されている仕事を全うしているかという意味でポンコツという表現をさせていただいた」と語った。
始まりは一本の電話だった。J3松本山雅の監督を退任した2024年12月。コーチ陣、地元報道陣らとの慰労会中に日本代表の森保一監督から連絡が入った。
直接コーチ就任を打診されたが、酔いが回っており「何を言ってるんですか?」と言って電話を切った。翌日、森保監督に連絡。今度はしらふの状態で就任要請を受け、食事の場が設けられることが決まった。
「内容は言えないですけど、大きなポイントがあって『そこが合致しなかったら僕はやれないですよ』と先に話してから、ふたりで食事する機会を作っていただいた。その時に『答えはどうですか?』と聞くと僕とまったく同じ考えだった。未来の代表チームがどうなっていくかという方向性の話。そこから考えに考えて、決めました。相談できる人も限られるので難しかったですね」
ジュビロ磐田でプロデビューした大卒1年目の1995年。当時22歳の名波が初めてA代表入りした際の教育係が、経験豊富なボランチの森保監督だった。
指導者の道を歩むことになった後も気にかけてもらい、磐田の監督を辞任した直後の2019年夏にも連絡を受けている。
「磐田の監督を辞めて宙ぶらりんの状況になった時もすぐに電話をもらい、可愛がってもらっているなと思った。そういう人に(日本代表コーチ就任の)声をかけていただき恩義は感じましたね」
世界的名将から吸収する
日本代表を強くするため、アップデートを続ける日々。日本人選手の視察で欧州に滞在する際には気になったクラブがあれば日本人が所属していないチームの試合にも足を運ぶ。
システムや監督にはこだわらず視野を広く持つことを意識。世界的名将のモウリーニョ氏(現フェネルバフチェ監督)やアーセナルのアルテタ監督ら動画を見てチーム作りのヒントを得ることもある。
日本が初出場した1998年W杯フランス大会で背番号10を背負った。2000年アジア杯レバノン大会では優勝の立役者となり、MVPを獲得。日の丸への想いは人一倍強く「ポイチさん(森保監督)の就任する前も含めて代表の試合を見逃したことはほとんどない」と言う。
「僕が代表に選ばれた当時は哲さん(柱谷哲二)や井原(正巳)さんが過去に暗黒の時代があって、今はきらびやかな舞台を用意してもらっていることを伝えてくれていた」
名波コーチも代表で一緒にプレーした後輩の中村俊輔や小野伸二、松井大輔らに日本を代表してピッチに立てる喜びや誇りを、時にプレーで時に言葉で伝えてきた。
その思いは継承され「今の選手は我々の時以上にそれを感じてやってくれているので、特段僕が言うことはない」と強調する。
2026年夏のW杯でチームが掲げる目標は優勝。ハードルは高いが、森保監督の下でチームが一つになれば、決して夢物語ではないと信じている。
「日々、ポイチさんの凄さも人間味も感じています。ポイチさんが率いるチームがなぜ強くなっていくか、なぜ粘り強いかが分かった気がします。答えは言いませんけど。最大限ボスをサポートすることが自分の使命。ボスが気持ちよく代表チームと向き合えるように後方支援したい」
ボスを男にするため、真摯に自身の仕事を向き合っていく。
名波浩/Hiroshi Nanami
1972年11月28日生まれ、静岡県藤枝市出身。清水商(現清水桜が丘)から順大を経て1995年にジュビロ磐田入り。1999年7月からセリエAベネチアでプレーし、2000年6月に磐田復帰。2006年にC大阪、2007年にJ2東京Vへ期限付き移籍し、2008年に磐田で現役引退。J1通算314試合34得点。国際Aマッチ通算67試合9得点。2014年9月にJ2磐田の監督に就任し、就任2年目で2位となりJ1に昇格。2021からはJ2松本で指揮した。