PERSON

2024.04.29

奇跡の40歳! バレリーナに憧れた愛川ゆず季が、“元祖グラレスラー”になるまで

グラビアアイドルとして青年誌の表紙を飾り、女子プロレスラーとしても“グラレスラー”なる新語を生み出すほどの活躍を見せた愛川ゆず季さん。結婚と出産を経験した2022年には「ベスト・ボディ・ジャパン」でグランプリを獲得、“奇跡の40歳”として我々の前に帰って来た。そのジェットコースターのような半生を、前後編にわけて振り返る。#後編

愛川氏1

ロシアで経験したクラシックバレエの挫折

──愛媛県のご出身だとうかがっていますが、幼少期の思い出で一番心に残っていることはありますか?

子どもの頃は、習いごとで1週間の予定が埋まっていました。月曜日の習字に始まり、クラシックバレエをやってピアノを習って、スイミングに通ってから塾に行ってという具合で。

母親は、子どもの頃に経済的な理由でやりたかったことができなかったそうで、私が長女だったこともあって、いろいろやらせてくれたみたいです。ただ、やはり好きじゃないと続かないので、クラシックバレエ以外は苦痛でしたね。

──ご実家はどのような家庭でしたか?

父親は、柚子などを扱う食品加工会社を営んでいました。実は“ゆず季”という名は本名で、“花ゆずき”という商品から私の名前をとったそうです。

私は厳しく育てられたんですが、そこで両親は疲れ果てたみたいで(笑)。妹は自由に育てられていました。

愛川氏2

──多くの習いごとを経験したなかでも、クラシックバレエはずっと続けていたんですね。

田舎だったので、コンクールに出ることはほとんどなかったんですが、バレエ教室ではセンターやソロで踊らせてもらっていました。昔からバレリーナになるのが夢で、中学2年生の時にはロシアに留学させてもらって、向こうで公演に出られたこともありました。

ただ、ロシアのバレリーナを見ていて、骨の作りから身体が違うな、どんなに頑張ってもこの人たちには勝つことはできないな、と思っちゃって。それでバレリーナになる夢は諦めました。でも、それまでバレエのことしか考えていなかったので、大いに絶望しましたし、人生で最初の挫折でした。

愛川氏3

──挫折して、次の目標は見つかりましたか?

それが全然見つからなくて。それまでの厳しい食事制限の反動で、コンビニに行ってプリンやゼリーを買って食べることが楽しみになっていました。

あと、バレエをやっていた時は、お友だちと遊びに出かける機会もなかったので、高校時代は友だちと遊ぶことが楽しくて。一種の“反抗期”だったのかもしれませんね。

事務所の決め手は名刺裏の若槻千夏ちゃん

──高校卒業後の進路はどのように考えていましたか?

ロシアに行ったことやアメリカへの留学を経験したことで、きちんと英語が喋れるようになりたいと思っていました。また、厳しい親から自由になりたいという気持ちもあったので、東京の語学学校を探して、ひとりで上京することにしたんです。

──上京する時に、芸能活動にも興味はあったのでしょうか?

当時、バレエをやっていた人がテコンドーを始めたらいきなり優勝した、という噂を耳にしたんです。それで、テコンドーだったら競技人口も少ないし、オリンピックに出たら有名になれるかもしれないと思って、新宿のテコンドー道場に通うようになりました。

だから、その頃から有名になりたいという気持ちは、常に頭の片隅にあったんです。スカウトされたいと思って、竹下通りや渋谷の109を何度も歩いたりして。そのなかで、いくつかお名刺をいただいたなかから、プラチナムプロダクションのお世話になることに決めたんです。

愛川氏4
愛川ゆず季/Yuzuki Aikawa
1983年愛媛県生まれ。2002年に渋谷でスカウトされ、2003年からグラビアアイドルとしてデビュー。2010年には、女子プロレスラーとしても活動を開始。“グラレスラー”という新語を生み出すほどの活躍を見せる。2013年にプロレス引退を表明し、2017年には一般男性との結婚を発表。2022年の「ベストボディ・ジャパン」で、フィットネスモデル部門のグランプリを獲得した。@aikawa_yuzuki

──プラチナムプロダクションに決めた理由は?

いただいた名刺の裏に、若槻千夏ちゃんの名前があったんです。声をかけてくださるのはセクシー系の事務所が多かったんですが、脱がなくてもよくて、テレビにもたくさん出ているタレントさんが所属する事務所なら大丈夫だろう、と。田舎者だったので、怖かったんでしょうね。これが20歳の時です。

──最初の仕事を覚えていますか?

2004年だったと思いますが、『FLASH EX』という雑誌で、いきなりグラビア3ページでした。当時、プラチナムプロダクションに巨乳のタレントがいなかったので、初の巨乳ということで力を入れて売り込んでくれたみたいです。なんの努力もしていなかったのに、「はい、撮影に行ってきて」みたいな感じでした。

愛川氏5

30歳手前で訪れた女子プロレスへの転機

──そこから順調に、グラビアアイドルとして人気を集めていったんですか?

最初は、グラビアをやるなら青年誌の表紙になることを目標にしようと考えていたんです。でも、事務所の力もあり1ヵ月ぐらいで青年誌の表紙を飾ることが決まってしまい…。思いの外、すぐに夢がかなってしまいました。それからは、「どうしようかな」と思いながらお仕事をしていて。

厳しい事務所だったので、ロケが終わると「靴を揃えなさい」とか「言葉が訛(なま)っている」とか、「食事の時は、眠そうな顔をしない」とか、ダメ出しのメモを渡されましたね。今思うと、社会人経験がなかったので、そこで勉強できた部分も大きかったです。

愛川氏6
女子プロレスラー時代の愛川ゆず季さん。

──愛川さんは人気者なのに自己肯定感が低いように感じます。自分に対する評価は厳しい方ですか?

自分では、有名になったと思ったことが一度もないんですよ。メディアに出られているのはすべて事務所のおかげで。いつも自分はダメだと思っていたので、落ちこぼれみたいな気分でいました。

あまり外を出歩くタイプでもないし、たまに褒められても「社交辞令だな」と受け取って。なので、自己肯定感は低いと思います。

──グラビアアイドルだった愛川さんが、プロレスに挑戦することになったきっかけはなんですか?

グラビアアイドルだった頃は、いただいたお仕事は一所懸命にやっていましたが、割と淡々と仕事をこなしていて。でも、27歳の時に転機が訪れたんです。それがTBSの『崖っぷち』というテレビ番組でした。

私のブログが200万アクセスに達しないと強制引退という企画がきっかけでした。最終的に200万アクセスは達成できたのですが、30歳に近づくにつれてお仕事も少なくなっていたし、この先どうしようか迷うようになって。

愛川氏7
2010年から13年間、女子プロレスラーとしてスターダムの第一線で活躍した。

そんな時、事務所から「プロレスをやりなさい」と言われて。本当は、若い頃よりお休みが増えて、お金にも困っていなかったから、ちょうどいい暮らしだったんです。でも、自分の中に変な自信もあって。

テコンドーをやっていたし、当時の女子プロレスはあまり人気がなかったので、私が一番になれると直感しました。それで、やるんだったら本気でやろう、覚悟を決めてやり抜くと思って、プロレスに入門しました。

でも、プロレスファンからの反発はすごいものがありましたね……。

【第2回に続く】

TEXT=サトータケシ

PHOTOGRAPH=デレック槇島一郎(StudioMAKISHIMA)

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