ニューヨークにあるアクターズ・スタジオは、数多くの役者を輩出する、アメリカでもっとも権威のある俳優養成所。そして、ここの名誉学部長であり、世界中で人気のトークショー番組「Inside The Actors Studio」のホストを務めるのがジェームズ・リプトン氏だ。日本では「アクターズ・スタジオ・インタビュー」のタイトルで長年NHKで放送され、知る人も多いはず。そして、このリプトン氏こそ、番組のファンを自負する十八代目中村勘三郎が実際に会って芝居について語り合いたい、と思っていた人物。彼に確かめたかったのは、歌舞伎はこれからどこに向かうかだった——。長きにわたり勘三郎を追い続けたノンフィクション作家・小松成美がルポした、ゲーテ伝説の企画を振り返る。第4回。※GOETHE2007年10月号掲載記事を再編。掲載されている情報等は雑誌発売当時の内容。 【特集 レジェンドたちの仕事術】
今という時代を生きて舞台に上がるのであれば、様々な表現を追及せねばならない
——リプトンさんに伺いたいのですが、勘三郎さん演じる法界坊の他、印象に残った場面、キャラクターはありますか。
リプトン いくつかありますよ。まず刀を打ち交わす立廻り。激しい戦いなのに、それがとてもシンプルですよね。
勘三郎 簡素な動きにして、逆に敵愾心や闘争心を色濃く表現していくんです。
リプトン 見得もそうしたものでしょうか。連続した動きの中で、ある瞬間にポーズを決める。あれは感情のピークを示しているものでしょう?
勘三郎 そう、クローズアップですね。
リプトン 静止するあの間が素晴らしい。見得のときに役者がやる目のクロス。あんなふうに目を寄せられなかったら、歌舞伎役者は務まらないですか?
勘三郎 ハハハ、ずっとやっているとできるようになりますよ。
リプトン 足や手が刀で切られて宙を舞うシーンも面白かった。黒子さんが切られた足や手を操っているんですが、とてもミステリアスでした。
勘三郎 あの演出は江戸時代のものじゃありません。僕たちが考えたんですよ。
リプトン それは素晴らしい。顔を切られてしまうカンジュウロウ(山崎屋勘十郎)を演じた笹野(高史)さんにも圧倒されました。最高のパンタローネでしたよ。そして、なんといっても、あの白い顔に魅せられました。
勘三郎 白塗りと言います。
リプトン 白塗りが「美しい」「ハンサム」「高貴」などを示しているんですね。また、白塗りした男性は女性的にも見えますね。それが美しさや凛々しさを増幅している。私が目を見張ったのは、その白塗りの若者です。ヨウスケ(松若要助)を演じたあの青年。彼が登場するだけで舞台には特別な空気が満ちていく。派手な動きはないのに、観客の視線を自然に集めてしまう。あの静かなパワーに私はぶっ飛ばされましたよ。
勘三郎 要助ですか! 実は、あれはうちの長男。中村勘太郎といいます。
リプトン 本当に! 知らなかった。姿はもちろんですが、何しろ手が綺麗だった。手の仕草を観ているだけでうっとりさせられました。彼には 沈黙の力がありますね。これは、騒々しいパワーの何倍も人を引きつける。あの静寂を司る姿には脱帽しました。ますます素晴らしい俳優になっていくでしょう。
勘三郎 ありがとうございます。でも悔しい、あいつに嫉妬しちゃうよ(笑)。
リプトン それから勘三郎さんの英語の台詞、よく使えていましたね。あそこで一段と盛り上がりました。実際、法界坊が英語を話すことで、歌舞伎という演劇が、アメリカ人にぐっと身近に感じられましたから。
——暗記した台詞だけでなく、アドリブで観客に話しかける演出もありました。
勘三郎 僕がびっくりしたのはね、初日に声をかけた女性、英語が分からなかったんですよ。なんとか名前だけ聞くと、「シマ」さんという方だった。なんだか、日本人みたいな名前だなと思って「Where are you from?」と聞くと、「イラン!」だって。アメリカ人に向けて、こっちは面白い答えをいくつか用意していたのに……。僕の口から出た言葉は「Too far.」だけ。参りました、まさかイランから観に来てくれているなんて思わないものね。
リプトン ハハハ。
勘三郎 日本人のお客さんの中には歌舞伎なんだから何も英語でやらなくてもいいのに、と言う方もいた。それはもっともなんですが、ニューヨークでしかできない芝居があると、僕は思ったんです。
リプトン その通りですよ。
——歌舞伎は日本人だけのものではない、という気持ちもあったのでしょうか? 英語は垣根を越えるための手段でもありましたね。
勘三郎 ええ、どんな国の方にも歌舞伎を楽しんでほしいという思いです。おこがましい気持ちはなかったんですよ。法界坊だったらば、お客さんとしゃべるのに、英語の方がより自然なんじゃないかと思っただけで。
リプトン ローレンス・オリビエという俳優がいます。彼がハムレットを舞台で演じたとき、独り言を呟く場面で驚くべき演出をしました。彼は黙ったまま演じるのですが、その声がスピーカーから聞こえてくるんです。彼の創造性が新しい芸術を誕生させました。いろいろ意見があったでしょうが、その演出は今も語り継がれています。
勘三郎 ローレンス・オリビエさん、うちのおじいさん(六代目・尾上菊五郎)がとても親しくさせていただいたんですよ。それで、これがすごい話なんですけど、日本人は死んだ時に胸に刀を置くんです。何故かというと、亡くなった肉体に魔が入り込まないように。東洋に造詣が深かったオリビエさんは、その話を知っていて、うちのじいさんが死んだという知らせを聞き、短剣を持って駆けつけてくれたんですよ。イギリスから飛行機に乗って。昭和24年の話です。第二次世界大戦が終って間もなくですよ。おじいさんの遺体を前にしたオリビエさんは、自分の手でおじいさんの胸にその短剣を置いてくれたそうです。
リプトン そうだったんですか。勘三郎さんのおじいさんについても知りたくなりました。
——どんな時代でも、新しいことを取り入れると、賞賛もあれば批判も渦巻くんですね。
勘三郎 そうなんです。6月、東京の若者の街といわれる渋谷で歌舞伎をやったんです。そのときにロックアーティスト(椎名林檎)のギターを音楽に使った。そしたらやっぱり、昔からその芝居を観ている人のなかには「何でギターなんかを入れるんだ」と、怒った人もいまして。
リプトン ぜひ観てみたいですね、そのお芝居。
勘三郎 本当、機会があれば観ていただきたいです。もちろん、ギターを使ったことを後悔はしていません。江戸時代にギターがあったら、僕がその時代の役者なら絶対に使っていますもの。
リプトン 当時は三味線だった?
勘三郎 そうです。三味線という楽器、江戸時代はとっても俗なものだった。庶民のものだったんですよ。だから、お能では三味線はなしで、鼓なんです。江戸の頃、お能の人が歌舞伎を観に来たら、三味線が使われていたんで怒って帰っちゃったというエピソードが残っているんですよ。歌舞伎を支持してくれたのは、庶民。庶民が求める俗なものを、僕はどんどん歌舞伎に取り入れたいんです。
リプトン 演劇の始まりは古代ギリシャ時代からといわれております。その頃のドラマにも反体制的なものがありました。「演劇のテーマを人々が暮らす社会に見る」という方向はずっと続いているわけです。そういうエネルギーを持ち得ない演劇は、やがて疲れて死ぬでしょう。
勘三郎 僕は古典が大好きです。しきたりや決められた様式の美しさを心から大切にしています。でも、この時代を生きて舞台に上がっているからには、いろんな表現を求め続けたい。定番になんか、胡座はかけません。もう、物議だってどんどん醸していきたいと思っています。
リプトン それでこそ生きた俳優ですよ。さて、ここでひとつ提案があるのですが。皆さんでこれから私の家にお茶を飲みにいらっしゃいませんか。西洋では、「ゲストを家に招けば、精神心理学者か神父を前にしたようにいろいろなことを告白してくれる」という言葉があります(笑)。コンメディア・デッラルテの古い書籍のライブラリーもありますから、それもご覧になってください。
勘三郎 喜んで伺います。すぐに勘太郎を呼び出しますので、一緒におじゃまさせてください。
ジェームズ・リプトン/James Lipton
1926年、アメリカ・デトロイト生まれ。アクターズ・スタジオの名誉学部長にして、作家、詩人の顔も持つ、アメリカ演劇界の重鎮的存在。1994年放送開始の人気トークショー番組「Inside The Actors Studio」では、アクターズ・スタジオの学生を前に、ホストとして多くの映画監督、ビッグスターにインタビューを行う。その真摯なパフォーマンスに満ちた司会ぶりは、ゲストはもちろん、視聴者から圧倒的な支持を受け、番組は世界中で放送されている。
十八代目中村勘三郎/Kanzaburo Nakamura
本名、波野哲明。1955年、昭和の名優と謳われた十七代目中村勘三郎の長男として東京に生まれる。59年、3歳で五代目中村勘九郎として歌舞伎座『昔噺桃太郎』の桃太郎役で初舞台。以後、江戸の世話狂言から上方狂言、時代物、新歌舞伎、舞踏まで、どんな役でも圧倒的な芸をみせる。2005年、十八代目中村勘三郎を襲名。2012年死去、享年57。